【文化と文明】の解説
<開高健と司馬遼太郎の対談「東と西(司馬遼太郎対談集、朝日新聞社刊行)」から>
対談:モンゴル、「文明」と「文化」のいまで開高と司馬両氏は、モンゴルの遊牧文化と日本などの農耕文化との違いを語る中で、
「文明」「文化」とは、何か、その違いはという課題に触れて、以下のように話されています。
<引用:一部略>
開高:さっき蒙古人のお役人が、鉄筋の宿舎に住んでいても、たまに草原にゲルを組んで生活をする、彼はやむにやまれずそうする、という話をされましたね。
そうした今でも悠々と遊牧生活をしているモンゴル人は(モンゴルの都市部の近代化した生活を)どう思っているのでしょう。(こうした文化より現代は、)文明の普遍性がちからを得ている時代でしょう?
司馬:どうかな、のんびりしたものじゃないかな。遊牧だって紀元前の北アジアでは、狩猟民からみれば大文明でしたからね。
ただ、現代では、文明は、道具として現れてきます。モンゴル人もジェット機は知っているし、ロケット砲もしっている。ソニーの製品も知っていますよ。しかし、(遊牧生活をしている人たちは、)そんなに欲しがらなかったようです。ただ、自分の暮らしを基礎にしたものはほしがるそうです。たとえば、ホンダ。新しい夢としてのオートバイへのあこがれが強かったようです。
文明が普遍的なものー誰でも参加できるものーとしたら、文化は、その民俗に特殊なもの、一般から見れば不合理なもの、だから、かえって心を安らがせるものですね。
極めて、不合理なものです。
開高:説明のつかないもの…
司馬:だから、心の安らぎなんです。いま、そうゆうものがしきりに求められている。
(中途略)
開高:文明というものはなんであれ、他の文化圏に容易に伝達できるか、容易でなくとも少なくとも伝達可能であるものを文明という。
一方、文化とはなにかというと、その文化圏に固有の血と土の産物であって、他の文化圏に伝えることが不可能であるか、もしくは極めて困難であるものですね。
大昔、一体化していた文明と文化は、問題なかった。それが、便利や快楽を求める手段としての、道具としての文明が目的化して、肥大し、宗教などの固有性すら超えて、肥大化し、追求され続け、全てを飲み込んでしまっているという感じですね。
ところが、一方で人間は、本質的に、また根源的に情熱的存在であるということもある。従って矛盾が生じ、文明だけが一方的に伸びるという現状に対して、反対の文化を求めてバランスを取ろうとするわけですね。
<引用以上>
【語源】
文化(Culture)
colonyの語幹col-はラテン語colereに由来し「耕す」意。cult-も同意でculturで「耕作」「教養」
ラテン語の‘colere’(cultureが由来した語)は、土地を開墾するだけではなく、そこに住み、それを(支配するのではなく)いたわり、それを守る、という広い含みをもつ語だった。‘cult’も元来は土地の神をいつくしむこと、である。
もちろん、この「文化」という日本語表現は、カルチャーの訳語に当てられる以前は、評論家の小林秀雄氏が次のように指摘するように、「文化する」=「武力に頼らず民を教化する」という意味合いがありました。その意味では、適訳なのかというと難しいところです。
もちろん、現在は、既に別な意味が付加され、カルチャーとしての意味合いが主となっていることは、実際ですが、嘗ての「文化」という表現の語源的な側面を理解しておく必要もあります。
<小林秀雄氏の見解の要点>
文化の語源は中国の「武力にたよらず民を教化する」という意味なのに、英語のcultureの訳語にあてはめてしまったため、言葉に語感がない。だから、良い言葉ではない。今は違って使われているので私は、この言葉を「Culture」の意味として使うことを良しとしない。
<要点、以上>
文明
Civilize:市民化する、都市の民に教化する
Civilization:文明
【語根】
civ-
【語根の基のラテン語(L.)・ギリシア語(Gk.)】
F.cite=city(市)、L.civis=citizen(市民)
<開高健と司馬遼太郎の対談「東と西(司馬遼太郎対談集、朝日新聞社刊行)」から>
対談:モンゴル、「文明」と「文化」のいまで開高と司馬両氏は、モンゴルの遊牧文化と日本などの農耕文化との違いを語る中で、
「文明」「文化」とは、何か、その違いはという課題に触れて、以下のように話されています。
<引用:一部略>
開高:さっき蒙古人のお役人が、鉄筋の宿舎に住んでいても、たまに草原にゲルを組んで生活をする、彼はやむにやまれずそうする、という話をされましたね。
そうした今でも悠々と遊牧生活をしているモンゴル人は(モンゴルの都市部の近代化した生活を)どう思っているのでしょう。(こうした文化より現代は、)文明の普遍性がちからを得ている時代でしょう?
司馬:どうかな、のんびりしたものじゃないかな。遊牧だって紀元前の北アジアでは、狩猟民からみれば大文明でしたからね。
ただ、現代では、文明は、道具として現れてきます。モンゴル人もジェット機は知っているし、ロケット砲もしっている。ソニーの製品も知っていますよ。しかし、(遊牧生活をしている人たちは、)そんなに欲しがらなかったようです。ただ、自分の暮らしを基礎にしたものはほしがるそうです。たとえば、ホンダ。新しい夢としてのオートバイへのあこがれが強かったようです。
文明が普遍的なものー誰でも参加できるものーとしたら、文化は、その民俗に特殊なもの、一般から見れば不合理なもの、だから、かえって心を安らがせるものですね。
極めて、不合理なものです。
開高:説明のつかないもの…
司馬:だから、心の安らぎなんです。いま、そうゆうものがしきりに求められている。
(中途略)
開高:文明というものはなんであれ、他の文化圏に容易に伝達できるか、容易でなくとも少なくとも伝達可能であるものを文明という。
一方、文化とはなにかというと、その文化圏に固有の血と土の産物であって、他の文化圏に伝えることが不可能であるか、もしくは極めて困難であるものですね。
大昔、一体化していた文明と文化は、問題なかった。それが、便利や快楽を求める手段としての、道具としての文明が目的化して、肥大し、宗教などの固有性すら超えて、肥大化し、追求され続け、全てを飲み込んでしまっているという感じですね。
ところが、一方で人間は、本質的に、また根源的に情熱的存在であるということもある。従って矛盾が生じ、文明だけが一方的に伸びるという現状に対して、反対の文化を求めてバランスを取ろうとするわけですね。
<引用以上>
【語源】
文化(Culture)
colonyの語幹col-はラテン語colereに由来し「耕す」意。cult-も同意でculturで「耕作」「教養」
ラテン語の‘colere’(cultureが由来した語)は、土地を開墾するだけではなく、そこに住み、それを(支配するのではなく)いたわり、それを守る、という広い含みをもつ語だった。‘cult’も元来は土地の神をいつくしむこと、である。
もちろん、この「文化」という日本語表現は、カルチャーの訳語に当てられる以前は、評論家の小林秀雄氏が次のように指摘するように、「文化する」=「武力に頼らず民を教化する」という意味合いがありました。その意味では、適訳なのかというと難しいところです。
もちろん、現在は、既に別な意味が付加され、カルチャーとしての意味合いが主となっていることは、実際ですが、嘗ての「文化」という表現の語源的な側面を理解しておく必要もあります。
<小林秀雄氏の見解の要点>
文化の語源は中国の「武力にたよらず民を教化する」という意味なのに、英語のcultureの訳語にあてはめてしまったため、言葉に語感がない。だから、良い言葉ではない。今は違って使われているので私は、この言葉を「Culture」の意味として使うことを良しとしない。
<要点、以上>
文明
Civilize:市民化する、都市の民に教化する
Civilization:文明
【語根】
civ-
【語根の基のラテン語(L.)・ギリシア語(Gk.)】
F.cite=city(市)、L.civis=citizen(市民)
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