【学生、教員、職員、地域住民にとっての「杜・森」とは】
1)森の時間と自分の時間を知る
1-2)【学生にとっての森】ー森を知るために、森の時間を知るー
まず、前章の「学生にとっての杜・森・植栽とは何か」を理解していくために、森の時間を知ることから、はじめて行きます。
今、存在する「学芸の森」とその森の時間を把握するために自らが「大学で学ぶ」という時間を比較してみます。
学生にとっての「生活の時間、学習の時間」。
それがどんなものかは、それぞれ学生が小中学校、高等学校と体感してきており、だれもが理解できるものでしょう。
大学という段階に入ってもそれほど大きな違いはないかもしれません。授業以外にゼミがあったり、幾分の相違はあっても、学びの時間は、馴染みのあるものです。
もちろん、学ぶシステムとしては、大きな変化があると思いますが、基本的な生活リズムは、自宅から通うとか、一人暮らしをするという生活の変化に伴う変化は、それぞれ異なるかもしれませんが、学ぶという要素としては、ほとんど同じでしょう。その意味で彼等にとって、「学習の時間」は普段の生活時間とリンクしたものです。
では、一方、「森の時間」とはどんなものなのでしょう。
A:【森の時間とは?】(農業時間とは?)
実は、森という存在にも時間があります。
自然環境に左右される「森の時間」は、
気候、風土に左右され、一日の朝から、夜までの時間、一年の移り変わる季節に従って変化し、流れていく「生き物が命を育む」時間です。
森を構成する「自然=土壌、水、樹木、花、その他の様々森の生き物」の本来もっている時間がその基本です。樹木の生育、花の開花、結実、増殖のための営み、それを支える土壌や水、多くの生き物も基本的な時間をもっています。その時間は、それぞれの種に特有で、その全てを知るためには、1日24時間、1年365日の生き物の命の流れをとらえることが必要となってきます。
農業や林業、漁業などに従事し、自然と向き合い、その恵みを受ける、その育成を支えていく人々の時間は、こうした生き物の時間と寄り添う「生物時間」とでもいえるものです。
古来、農業に従事する人々にとって、作物や植栽を育むためにかけがえのない太陽や水、土壌の恵みを感じ、それぞれの種を育む仕組みを把握して、寄り添っていく時間「農(業)時間」をその身体に持っていることが欠かせないことでした。欠かせないというよりは、自然にその時間が日常の時間となることが生活に欠かせないことだったのです。
もちろん、農業でなく、ただ庭の植栽として、観賞するというだけでも同じことなのです。当時の彼等の風土時間を共有することで愛でた植栽への想いを共有することによって、可能になっていきます。
b:植栽、動植物と付き合うための時間・風土・農時間が必要?
森や自然と密接な付き合いをしてきた経験のある人は、それほど多くはないかもしれませんが、故郷や郷土の自然を生活の中や周囲に農業に従事する人々がいることでその「農業時間(人と動植物が共生するための時間)」を体験したり、感じてきた人たちも多くいるのではないでしょうか。
しかし、学校生活が中心となるにつれて、故郷の自然や風土との記憶より、現在の身近な自然は、近所の公園や学校の植栽にかわってしまっている場合がほとんどでしょう。
その意味では、幼少期に自分が積極的に関わる故郷の自然ではなく、単なる生活の風景の一部としての「自然=植栽」になってきているのが実際のようです。それよりも自分の学習・学校生活を基本とした時間の中にいることで、こうした農業(風土)時間と疎遠になってきているひと、または全く経験のない人がほとんどなのです。
知識として「森・植栽」について、学ぶためには、生物学、植物学や園芸学、植物民族学などを学ぶことであるレベルまでは、達成できるようになります。しかし、「植栽にかけた人々の思いを知る」には、そうした「森・植栽」と同じ時間を共有し、育ててきた人々と同様、「森・植栽」にと付き合う(=植物を観賞したり、育てたり、管理したりする)ことができるようになることで、彼等が森・植栽と共有した時間を同じように生き、体感することが重要なのです。
人と植栽にかけた思いを共有するためには、こうした人と同じように自然と共生してきた、古くからの農耕民族としての時間(動植物=風土に生きる生物たちと様々に付き合う時間)を身につけていないと中々難しいものなのです。
<この項、続く>