【大学生活=アイデンティティを探す旅へーその第一歩は、「どう考えはじめるのか」からー】

●簡単に「これから始まる大学生活に対して、どう考えているのか」と聞かれても、大学に入学した理由や目的は、人それぞれだから、同じ筈もなく、一言では言えないと言われてしまえばそれまでです。

入学した理由はと聞かれれば、

「たまたま、合格したから」
「学校の先生になりたかったから」
「教えることに興味があったから」
「近くに住んでいるから」
「国立だったから」


などとその入学理由は、様々でしょう。

よく、「大学生活はあなたにとって何ですか?」という問いに対して、
自己実現の場所、自分らしく生きる生き方を発見する、自分探しの旅
などという言葉を聞くことがあります。自らのアイデンティティの確立するための時間などという言いかたもあるかもしれません。

この「アイデンティティ」という言葉はわかるようでいて、説明しようと思うとなかなか難しいものです。この「アイデンティティ」ということについて興味深い話をされた方がいます。
今は故人となった元文化庁長官などを歴任された心理療法家、心理学者の河合隼雄先生です。

以下にご紹介するのは、京都大学での最終講義として知られる「こころの最終講義」(創造的市民講座)という講演集に納められた講演のなかで、河合先生が「アイデンティティとは」について述べられたものです。

河合隼雄先生は、
「自分は心理学者というよりは、心理療法という作業で患者と向き合いその心と対峙していったこと」
「その過程でこの「アイデンティティ」という課題に向き合ったこと」、
そして、
「西洋の概念としての「アイデンティティ=同一性、エゴ・アイデンティティ=自己同一性」というものについて、西洋文化と日本文化を比較して、その文化による差異とアイデンティティの捉え方」、
「今後、自分が社会の中でいかに生きていくことを考えていくこととの関連」
などを以下のように語られています。その部分を一部、転載します。詳しくは、是非、この講演集を読まれることをお勧めします。

氏はまず、最初にこの概念の重要性を述べたアメリカの心理学者エリクソンの概念説明を要約して、アイデンティティとはを以下のように説明しています。

<転載、部分>

このアイデンティティというのはいったいどうゆうことかといいますと、非常に簡単にいってしまえば、「私は私である」ということです。
私は私であって、私以外の何物でもない。しかし、単にそれだけではなくて、私は私であって何者でもないということを、私がちゃんと感じ、私がそれを自分の心にはっきりとおさめることができる。主体的にちゃんと自分のものにできているかどうか、というふうにいっていいと思います。

<転載、以上>

しかし、さらに付け加えて、実はこのことばは考え出すとわからなくなるのですね。といわれています、エリクソン自身も聞かれると、実は自分もはっきりとはわからないんだと苦笑いをしたという話を続けられています。そして、結論として、以下のようにまとめられています。

<転載、部分>

エリクソンが、一言にしていえばアイデンティティとはどうゆうことなんだ、と訊かれたときに、簡単にはいえない、と言ったのは、単に冗談めかして言ったのではない。
われわれのやっているような心理学といいますか、あるいは人間はいかにして生きるのかという問題に関係してくるかぎり、(心理療法の現場では)非常に大事なことばというものは、一言にしていえないといことが多いからではないか。
一言でいえるようなことだったら、あまり大事だということにならない、すぐわかってしまうんですね。

そういうことからいえば、アイデンティティということばのように、そのことを訊かれてだんだん大事な気がしてきて、そうだ、アイデンティティを確立しなければならないと思って、考え出したら考えるほどわからなくなるといったことばがいいことばなんですね。(中略)

そういう点でもアイデンティティというものはいわゆる客観科学における概念とはちがってしまうし、またそういうものを使うということで客観的な科学の好きな人からは批判されるのですけれども、私は逆手にとりまして、そういう言葉を使うことによって、われわれは自分の人生をより深く考えられるのではないかといっているわけです。

<転載、以上>

さすがに、心理学を紙の上の学問だけでなく、多くの心理療法の現場、不可解な「人」「その心」と対峙されてきた、その解決への道筋を考えていくという気の遠くなるような作業経験積み重ねてこられた河合先生のならではの言葉という気がします。
そうした経験の中からしか導き出せないような視点です。

さらに河合先生は、西洋人の自我と日本人の自我の違いに着目して、その違いを説明しています。
西洋人の「私」というのは、非常にかっちりと確立した「私」です。としてこれを西洋人は、「自我=エゴ・アイデンティティ」と呼んでおり、日本人にはこうした「私」は考えずらく、日本人の「私」には「私ら」という要素が入ってくるということを指摘され、日本人にとって、このエゴ・アイデンティティというものはそのまま、うまくはなじまないのではとも語っています。

その上で、西洋文化から始まったエゴ・アイデンティティという考え方を現実の自分らしい生き方と社会性という視点から、以下のよう説明してくれています。
ある意味では、現在の大人や大学、社会がこうした西洋文化の概念から、一般的に青年がおとなになっていく段階で求めている「社会性を獲得する」という目標を分析し、説明してくれています。


<転載、部分>

自分の方をおろそかにしすぎて社会の型に早くはまった人は、あとで困っていますし、それから自分の方を大事にしすぎた人は、なかなか社会にははまっていかない。
エリクソンにいわせると、こういう二つの面をうまくやってちゃんとできたひと、これがエゴ・アイデンティティの確立した人です。

そして、そういう意味のエゴ・アイデンティティというのは、つまり「おとな」になるときに確立する。エリクソンの言い方を逆にいいますと、エゴ・アイデンティティをちゃんと確立することが「おとなになる」ということではないだろうか。
(中略)

このおとなになるときには断念する力が要るということが非常に大事なんです。
何かの道を選ぶというと、みんな非常にいいことばかり考えるのですが、何かを選ぶというなかには、その代わりにこれはやめることになるんだという、あきらめというものがある。あきらめる力をもっていない人は、エゴ・アイデンティティというものは確立しない。

<転載、以上>

非常に的確に大学生が社会から、一般的にもとめられているものは何か。、「西洋で始まったエゴ・アイデンティティの確立という潮流から、現在の日本にその視点を移し、教育の現場で求められてきたものとは何か」が氏の説明で良くわかります。

もちろん、エリクソンはこの後の青年期におけるエゴ・アイデンティティの喪失=エゴ・アイデンティティ・ディフュージョン(拡散)という概念を提出し、現在の若者が青年期にうまくエゴ・アイデンティティを確立できないという現象も説明はしています。この点もあって、西洋では、現在の若者を分析する概念としても適合することで、もてはやされてきたのだと語っています。


【大学生活の入り口とは=何を考え始めるのか】

これが、一般的な教育の現場の求める「大学を卒業してから、社会人となっていく学生の目標」だとすれば、「学生生活への入り口=何を考え始めるのか」は、
「大学卒業するときに、何を棄て、何を選んでいくかを発見できるようにしていく=大学就学期間に自己のアイデンティティを確立していく」ために「将来への展望をもち、準備をする段階」
ということになりそうです。




しかし、ここで、終わってしまったら、誰でもわかるように何も解決しません。
ここまででしたら、河合先生の話を取り上げる意味はあまり、ないのです。大事なのは、この後に続く部分です。
河合先生は、このエリクソンの考え方への最近のアメリカでの批判と日本におけるアイデンティティを考えるためには、もっとこの考え方を超えていかなければならない
と語っています。

この内容は、次章以降でご紹介します。