【明治以前の武蔵国としての地勢を読む】

江戸時代以前の「貫井村」とその北側の土地は、当時武蔵国と呼ばれた地域の中のどんな土地だったのでしょう?徳川家康の江戸入府以前は、この水利の乏しい台地は、田畑もない、葦の生い茂る原野だったようです。

早くから、開けたのは、その一部の交通の要所で、多摩川という人とモノの移動の大動脈。その両岸をつなぐ渡し場としての「府中」(押立の渡し)などの存在とそこからの各地への道の存在だったようです。

【東山道武蔵路と鎌倉街道】

<東山道武蔵路>

鎌倉以前、律令制時代には、「東山道武蔵路」が武蔵国国府と下野、上野国それぞれの国府とを行き来する道として、整備され、この地域の開拓を進めたようです。その後、武蔵国国府は、東海道に属することになり、この道は利用されなくなっていきます。


<鎌倉街道 下道>

鎌倉時代は、当時の鎌倉から、武蔵国国府を経て、「鎌倉街道」を利用して川越へと抜ける土地として、発達し、集落や水田、畑が開拓され、国分寺や小平などの街道沿い限って、点々と街道沿いに以下の「吾妻鏡」に記載されているような集落が生まれたようです。

<以下、Wikipediaより、転載>

古道としての「鎌倉街道」とは、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網で、鎌倉幕府の御家人が有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道であり、鎌倉時代の関東近郊の主要道の意として用いられている。

<その内の下道>

鎌倉から武蔵西部や上州に向かう下道が府中から、北へと向かう道にあたるとされています。

鎌倉時代に編まれた「宴曲抄」の中の歌謡「善光寺修行」には道中の地名が織りこまれており、「吾妻鏡」でいう「下道」の経路と推定される。

●由比の浜(鎌倉市由比ヶ浜)
- 常葉山(鎌倉市大仏坂北西の常葉)
- 村岡(藤沢市宮前を中心とした付近)
- 柄沢(藤沢市柄沢付近)
- 飯田(横浜市泉区上飯田町・下飯田町付近)
- 井出の沢(町田市本町田)
- 小山田の里(町田市小野路町)
- 霞ノ関(多摩市関戸)
- 恋が窪(国分寺市の東恋ヶ窪及び西恋ヶ窪)
- 久米川(東村山市と所沢市との境付近)

- 武蔵野(所沢市一帯の地域)
- 堀兼(狭山市堀兼)
- 三ツ木(狭山市三ツ木)
- 入間川(狭山市を流れる入間川で右岸に宿があった)
- 苦林(毛呂山町越辺川南岸の苦林宿)
- 大蔵(嵐山町大蔵)
- 槻川(嵐山町菅谷の南を流れる川で都幾川と合流する)
- 比企が原(嵐山町菅谷周辺)
- 奈良梨(小川町の市野川岸の奈良梨)
- 荒川(寄居町の荒川)
- 見馴川(児玉町を流れる現在の小山川)
- 見馴の渡(見馴川の渡)
- 児玉(児玉町児玉)
- 雉が岡(児玉町八幡山)
- 鏑川(藤岡市と高崎市の境を流れる)
- 山名(高崎市山名町)
- 倉賀野(高崎市倉賀野町)
- 衣沢(高崎市寺尾町)
- 指出(高崎市石原町付近)
- 豊岡(高崎市の上・中・下豊岡町)
- 板鼻(安中市板鼻)
- 松井田(松井田町)

<転載、以上>

1)戦国時代の北条氏康の領国支配を示す、検地帳を読む


2)徳川家康の関東入府直後の「天正検地」と大久保長安の行った「石見検地」に見る武蔵国支配の範囲を知る

<この項、続く>
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