【徳川入府後の多摩地域と江戸】

まず、徳川家康の入府後に江戸の周辺地域は、どのような変化を遂げていったかを知る必要があります。「江戸幕府が成立してからは、江戸の町づくり」、その前には、「関東での戦、覇権確立を進めるために江戸城建設」に徳川家康この多摩地域はどのような位置づけ、役割りを求めたのでしょう。

1)江戸城建設に求められた資材とその調達

一つには、江戸城建設に求められた「石」が多摩を経て、運ばれたという記録があります。


武蔵五日市(現あきる野市)と東京を結ぶ街道は、五日市街道です。しかし、近世以前には「伊奈道」と呼ばれていたのです。この道が知られるようになったのは徳川家康が江戸入城からで、江戸城整備に欠かせない石工の職人をここ伊奈村から呼び寄せたことから始まります。そこで切り出された石を利用した石臼・石碑などを作る村として、隣の五日市村などと同じく重要な村だったようです。五日市街道が「伊奈道」と嘗ては呼ばれた所以でしょう。大雑把にいえば、秋川の川上が五日市村(現いつかいち)で、川下が伊奈村(現ますこ)となります。

以下、この伊奈村に鎮座している「岩走神社」と「大悲願寺」の資料を元にこの村の歴史を見て行きます。

<五日市郷土だより、「伊奈の石工伝説」より、転載>

伊奈の石工伝説
石井道郎著

はじめに

五日市町の東部伊奈地区は、秋川谷の中では、一つの先進地帯で、中世期に鎌倉街道(秩父・西武蔵の山麓と相模をつなぐ相州古道)も通り、16世紀後半の後北条時代には早ばやと定期市を開設した。

後に伊奈市との市争いに勝った後進の五日市村を江戸時代の秋川谷の首都とすれば、中世期の主邑は伊奈村であった。

伊奈村を特徴づけるものに、今一つ伊奈石という砂岩がある。『新編武蔵風土記稿』は伊奈という村名の起こりを信州伊那谷の石工の来住によるという伝承を伝え、伊奈村の草分けが彼ら石工連であるかの如き説をとりあげている(後述)。今回これらの伊奈石と石工にまつわる伝承を地元の古文書等に基づき考察した。この際先学片山迪夫氏が昭和46年に『武蔵野』に発表された「石工門開き一件」(石工廃業の経緯を書く)を参考にさせていただいた。

1. 石工の移住と岩走神社

加工しやすい砂岩の岩脈が網代、高尾地区から秋川を横断し、横沢、三内地区へ走っていることは、人為と無関係の自然現象であるが、往古この石資源に目をつけた石工の一団が信州伊那谷(伊奈とも書く)からやってきて、伊奈村を開いたという伝承が、現在の伊奈地区の鎮守岩走神社に社伝として残っている。
 これによると、仁平2年(1152)信州伊那郷の者12名が来住して開拓につとめ、保元3年(1158)には信州戸隠明神の祭神手力男命を分祠した。これが岩走神社で、12名のうちの1人宮沢氏が神官になったという。

信州伊那は石工の本場(中心は高遠)で、長男は在村するが、農地を分けてもらえない次、三男は旅稼ぎ石工となり、石材のある地を尋ねて旅廻りし、適地があればそこに居つく風があったという。多摩の一隅に手頃な細工し易い石材があると聞きつけた一群が来村し、たまたま住み心地も悪くなく、第二の故郷と定めたということであろう。

ところで社伝、寺伝は貴重な資料であるが、鵜呑みにし兼ねる点も多い。現存する伊奈石の石造物のうち、古い五輪塔や板碑等の紀年は目下14世紀中期(後述)まで遡るが、それ以前は寡聞にして知らない。14世紀は南北朝の動乱期であるが、その動乱が各地の在郷武士層(開拓地主で自衛上武装する。庶民上層部)に波及した。彼らは文字通り一所懸命(自分の田畑を命をかけて守る)の立場上、地縁、血縁相集い、神仏に誓った一味同心の集団(一揆という)を作り、より優勢な中央勢力と結び、その傘の下で自己保全につとめた。この時代は力の時代で、その為かえって信仰心や無常感が深く滲透した時期でもあった。秋川谷の有力寺院の開創も概ね14-15世紀である。ということは、宗教と関係の深い石造物の需要もこの頃からようやく旺盛になったことを意味する。平安末期の石工集団の来住説は、需要の面からみても時期尚早の感をまぬがれない。

岩走伝承の検討はひとまずおき、当地側の状況をみるに、村の北部山麓地帯には古くから(4世紀?)開けた谷田もあり、平安末、鎌倉(11〜13世紀)の頃には上村北郷(現伊奈の北部)には水田も開け、地侍も根を生やしていたと思われる。大悲願寺の開創建久2年(1191)が、その有力証拠となる。しかし未開拓の地も多く、遠来の石工たちは当然先住者の認知を受け、石工を営みながら開墾に従事したのではあるまいか。

伊奈には鍛冶屋平という古地名もあるが、技術集団は歓迎される。彼らが石工という特技をもち、先住者の権益を犯さない限り、受入はスムーズに行われたと思われる。その結果信州伊那との結びつきも保たれ、後続の移住や、家族の自然増もみるという好循環を招いたように推測される。

「伊奈」という地名は発生の時期を確定できないが、戦国期(16世紀)の後北条文書には見られる。伝えられるごとく、信州伊那に由来するとすれば、当地区で石工が幅をきかせていた何よりの証拠で、伊那谷からの客人は当村の「草分け」はともかく、「準草分け」の称号を呈して差しつかえないであろう。  

2.『新編武蔵風土記稿』と石工

江戸後期の文政年間に編纂された『新編武蔵風土記稿』多摩郡伊奈村の項に「村名の起こるところを尋ねるに、往古信濃郡伊奈国より石工多く移り住みて、専ら業を広くせし故に村名となせり。天正18年(1590)御入国の後、江戸城石垣等の御用をつとむと云えり。されど今は其職を業とする者なし。」と書かれている。

参考:「伊奈氏とは」
伊奈氏(いなし)は、日本の氏族。武士の家系。清和源氏義国流足利氏系(異説あり)。家紋は左頭二つ巴、または剣梅鉢。
足利氏の支流である戸崎氏の分家といわれ、初め荒川氏を称していたが、荒川詮頼の曾孫荒川易氏(やすうじ)のときに将軍足利義尚から信濃国伊那郡の一部を与えられ、易氏の孫の易次(やすつぐ)の代に伊奈熊蔵と号した。
易次は叔父の易正(やすまさ)との所領争いに敗れて居城を奪われたため、三河国に移り松平氏の家臣となった。その子伊奈忠基(ただもと)は松平広忠・徳川家康父子に仕えて三河国小島城(現在の愛知県西尾市)を居城とした。
忠基の嫡男伊奈貞政(さだまさ)の系統は伊奈昭綱のときに断絶した。もう一人の子の伊奈忠家(ただいえ)の系統は伊奈忠次が徳川家康に仕え、家康の関東入国に従って代官頭(関東郡代の前身)となり、徳川氏の関東領国支配の中心的役割を担った。<参考、以上>


風土記稿は地元村々からの書上げに基づいて書かれるので、当時(文政期)当地に流布していた話を記載したまでであろうが、以来石工伝承は一段と権威づけられた。

ところでここに「江戸城石垣等の御用をつとめた」とあるのを、伊奈石がお城の石垣になったと解する向きもあるが、あの風化しやすい砂岩が使われたのではなく、石工が徴用されたのである。江戸城の石材は多くの大名連に割当てられ、主として伊豆方面から巨石が海上輸送されている。伊奈石の陸上輸送は不能率で考え難いし、川下げも、思い石材を浅い秋川から搬出するのは困難な筈である。江戸後期の浮力のある杉筏なら、上荷に石臼や小さな切石位は乗せられるが、これは又別な話になる。

江戸の建設期にはあらゆる職人が広く徴用された。石工は信州からも呼ばれたというから、江戸より11里半(46キロ)の伊奈の石工は当然召出されたであろう。江戸城が完成しても、市街地の埋立、護岸工事、寺社建築等がえんえん数十年に亘って行われたので、石工は時に里帰りはあったにしても、世代を越えて作業場暮らしをした者も出たと推測される。とにかく伊奈村の石工人口は江戸建設期にピークを迎え、以後工事の終熄とともに過剰となった者の帰農が続いたことであろう。幸いにして稼いだ金は土地にかえることもできる……。
 後述する最初の門開き元禄17年頃はこうした社会状況=石工の専業農家化が進んでいた筈である。


 ここで風土記稿の最後の言葉「今は其職を業とする者なし」についてみよう。
 江戸時代の伊奈村は石高652石余、家数200戸余、人口800〜900の大村である。このうち石工がどのくらいおったか不明であるが、門開き資料(旧伊奈村石川・大福・宮沢家文書)をみると、元禄17年(1704)21軒(22軒という文書もある)、安永3年(1774)20軒、寛政9年(1797)39軒と3回に分けて計80軒が廃業した記録があり、その結果「石工なし」となっているので、単純に逆算すれば、当初の石工数は80軒という数になる。実は門開現象は広く係累者を含む様子なので、石工実数は多少割引きされるようだが、それにしても戸数200戸の3分の1を越え、石工の村と呼ばれてもおかしくない実態であったことがわかる。これが家業として完全に消滅したことは石工に課せられた税「石臼運上」の負担者がいなくなったこと、又伊奈の市で市庭を借り石臼等を売る者の名簿(石川家文書)をみると、みな他村(留原、羽村、福生、砂川)の者であることからも明らかである。石の産地で他村の者が石を売る。まことに奇妙な現象で、経済外的な異常な要因がなければならない。この謎解きの前に説明の順序として、今ひとつ廻り途を認めていただきたい。


3.伊奈石の用途と石臼運上

石工が当地で活躍を始めたと思われる中世期の石造物は主に五輪塔であったと推測される。それは石工の別称を五輪切り(古称)ということからもうかがえる。五輪塔は鎌倉期に流行し、以来貴族の墓などに使われるようになったが、当地でも地侍層の墓石ないし、供養塔に使われたようである。

片山迪夫氏が昭和43年、旧増戸村役場の石垣を崩し、消防倉庫を造った際に出土した石塔類から中世期と思われる伊奈石製品を拾い集めたところ、五輪塔を中心に宝筺印塔、板碑の3種が56基あったと『武蔵野』にリストアップされている。ここはもと千日堂(近世期の呼称)跡で、片山氏が集めたのは出土品の一部であった由。なお五輪塔の銘の上限が暦応5年(1343)であったという。

板碑研究家の県敏夫氏が『五日市町史』に伊奈石板碑の集計数を47基とし、分布図を作っていられるが、これによると地元の次は八王子(河口、恩方)に多く、遠くは昭島、日野に及んでいる。伊奈石板碑より一般的な伊奈石五輪塔は当然もっと広く、数も多く分布したと思われる。県氏は武州南一揆衆という多摩川、秋川流域に勢力を張った地侍層が、伊奈石製品の顧客ではなかったか、と示唆しておられる。

五輪塔は江戸期に入っても盛んに造られた。庶民層が現在と同型の墓石をたてるようになったのは、当地では江戸中期に入ってからで、まれに元禄の銘が入っていても、よくみると文化文政期の造立であったりする。伊奈石の弱点で風化し易く、すでに刻字もおぼろになっているものが多い。その他の近世の伊奈石製品には、地蔵、庚申、馬頭観音等の石仏類がある。また切石が土蔵の台石に据えられ、階段石となり、井戸枠に使われたりしている。しかし最も親しまれたのは石臼で、江戸後期粉食の普及に伴い、各戸に一個必需品となった。その目立ても石工の仕事である。

幕府は元文2年(1737)横沢村(大悲願寺文書)延享3年(1746)伊奈村(大福家文書)に石臼運上という石工税を新設した。横沢村5人分、伊奈村18人分(1人分永35文。永は5〜6倍すると当時通用する文になる。)である。石臼が石工の製品を代表していたことが税の名称からうかがえる。
石臼運上の金額はそれほど高額ではないが負担者にとっては馬鹿にならない。大悲願寺26世住職慈明の文化2年(1805)の日記によれば、税の新設当時、横沢村に10数名、伊奈村には40名程の石工がいたが、その後石工数が減って負担者がなく、横沢村では旧石工の持畑の年貢に上乗せして徴収したと記している。たまたま石臼運上付きの畑を購入した慈明は、横沢村の名主が信州の石工に村内の石資源を買却し、村の収入に繰り入れようとしたのに対し、その金は石臼運上の財源にせよと抗議状をぶっつけている。結局天保期(1830〜43)になり、横沢村で只1人残った石工藤兵衛(現大悲願寺西隣、田野倉石材店のご先祖、初代は相模の出身で江戸の工事で知り合い当地に来住されたという。)が金一両を出し、村と大悲願寺と旧石工2名が夫々1分を拠出、計2両を石臼運上の財源に当て。この問題を解決している。一方伊奈村では安永3年と寛政9年の2回の門開きの際、旧石工連で計8両の金をつくり村へ預けた。村では畑を買いその小作金を以て運上に当てる処置をとった。両村ともなけなしの金と知恵をしぼっている。


4.門開き行事の実態

石工が廃業を公けにし、座頭側から認めてもらう行事を門開きと称する。具体的にどのようなことをするのか、から説明する。

廃業を誓った石工達が座頭(盲人)や瞽女(女性の盲人)頭を招待し、ご馳走して、今後はどうか我家へも出入りしてほしいと頼む行事で、名主、請合人、世話人が間に入る。請合人は村の有力組頭や菩提寺住職で、慈明日記の寛政9年11月28日に「宮沢豊前宅にて振廻い、祝儀これなくして往く」との記載がある。世話人はこの宮沢神官で、自宅を会場に提供している。なぜこんなことをするのか。ことは江戸時代の幕府の盲人政策に発する。幕府より保護すべき人々として、公然と施しを受ける権利を認められた盲人達は、祝儀、不祝儀の家があると、そこに出入りし施物を受ける風習があった。ところが盲人達は幕府の保護政策(実は放任政策)に乗じ、出入りする家、しない家の別を設けた。盲人達の全国的組織「当道座」の座法(寛永11年・1634年の『当道要集』)を見ると、そこには芸能系職種、技術系職種35が出入りしない家「忌み筋」として列挙され、その中に「五輪切り」が含まれていた。当道座の作った「忌み筋」に何の根拠があるわけでなく、施しをより確実にするための盲人側の手段であり、あわせて自分達の権威も誇示するものであったと解釈されている。(中山太郎著『日本盲人史』)

第一回の門開き元禄17年に、元石工27名が名主、請合人、世話人に差出した「一札」を現代風に意訳すると、

1 私共は八代以前から石工家業をしていないのに、石工をやったということで座頭坊衆が出入りしてくれない。

2 まことに訳のわからぬことで迷惑しているが、今回門開きをし、立合の皆様にお願いして、座頭衆の出入りを頼んだ。

3 以後は私達は石工関係者とはつき合いを断ち、縁組みもしない。

4 我々の仲間でこんな事(門開きを指す)は無用という者もいたが、彼等には縁切り証文を書いた。


という内容である。さらに安永、寛政の一札は全く同文で、

1 私共は近代石工家業をしていないが、石工という名目は逃れ難い。

2 今後石切縁者とはつき合いをしない。

3 門開きを済し、座頭衆が出入りをする上は、私共はおかげで、しろうとになったのだからこの恩は忘れない。


という内容であった。片山氏は信州高遠で、石工と座頭の関係を調べたがこのような話は聞けなかったという。また隣村横沢村にも門開き文書は見当たらない。伊奈村の特殊事情があったかどうか。その辺を詳らかにする文書はない。ここで問題なのは石工同士の縁切りで、元禄の文書からみると、門開きなど理不尽な話と突っ張った硬骨漢も居たらしいが、狭い地域社会の中で、仲間はずれにされてはたまらないから、最終的には同調せざるを得なかったようである。

ところで、立場をかえこの問題を座頭の側から見ると、彼らが遵法している「当道座の座法」は、江戸期の徹底した階層社会が生んだ鬼っ子であり、政治体制の所産である。座頭衆がハンディキャップをもった身で生き抜くために余儀なくとらざるを得なかった「生活の術」とも受け取れるのである。


おわりに

今、伊奈石は歴史的使命を終えたように見える。石工伝説の陰の部分も「時」がきれいに洗い流してくれた。筆者が本稿発行に当たり、ご意見を伺って廻った伊奈地域の古老方は「石工受難の史実」を全く知らない「過去の物語」として興味深く読んで下さった。一つの歴史物語と受け取っていただけたようである。

「門開き」という言葉を聞き知っている方は、田野倉石材店の御主人をはじめとして、一人もいなかった。人が人をおとしめた歴史の風化はそれなりに人権意識の成熟を意味しよう。

<転載、以上>

結論

五日市郷土便りでの説明で、
「江戸城石垣等の御用をつとめた」とあるのを、伊奈石がお城の石垣になったと解する向きもあるが、あの風化しやすい砂岩が使われたのではなく、石工が徴用されたのである。江戸城の石材は多くの大名連に割当てられ、主として伊豆方面から巨石が海上輸送されている。伊奈石の陸上輸送は不能率で考え難いし、川下げも、思い石材を浅い秋川から搬出するのは困難な筈である。江戸後期の浮力のある杉筏なら、上荷に石臼や小さな切石位は乗せられるが、これは又別な話になる。」
とあるように、あくまで石工が江戸城建設に徴用されたことがあるだけで、五日市街道が石運搬に利用されたとは考えられない。それより、この伊奈石の流通は、江戸以前からの周辺地域との以下のような著述に注目したい
「石工が当地で活躍を始めたと思われる中世期の石造物は主に五輪塔であったと推測される。それは石工の別称を五輪切り(古称)ということからもうかがえる。五輪塔は鎌倉期に流行し、以来貴族の墓などに使われるようになったが、当地でも地侍層の墓石ないし、供養塔に使われたようである。(中略)

板碑研究家の県敏夫氏が『五日市町史』に伊奈石板碑の集計数を47基とし、分布図を作っていられるが、これによると地元の次は八王子(河口、恩方)に多く、遠くは昭島、日野に及んでいる。伊奈石板碑より一般的な伊奈石五輪塔は当然もっと広く、数も多く分布したと思われる。県氏は武州南一揆衆という多摩川、秋川流域に勢力を張った地侍層が、伊奈石製品の顧客ではなかったか、と示唆しておられる。」

これでもわかるように、この地域の産物の伊奈石による五輪塔が五日市と八王子、昭島、日野と秋川、多摩川流域に勢力を張った地侍層のつながりを証明してくれていることがより重要だと思われます。


2)幕府領だった関東支配役を「関東代官」とした徳川家康

実際に幕府にとって重要な場所として、関東代官にその地域の管理をまかせた徳川家康。実際、関東入府と同時に任命されたのは、伊奈氏でした。以下に「関東代官とはどんな役目を担っていたのか」をWikipediaから情報を転載して、ご紹介します。


<転載部分>

伊奈氏の「関東代官」

従来、関東郡代と考えられていた関東代官伊奈氏は、関八州の幕府直轄領約30万石を管轄する。行政・裁判・年貢徴収なども取り仕切り、警察権も統括していた。また将軍が鷹狩をするための鷹場の管理も行っている。

陣屋ははじめ武蔵国小室(現埼玉県北足立郡伊奈町)の小室陣屋。のち1629年(寛永6年)に同国赤山(現埼玉県川口市)の赤山城へと移された。さらに武蔵国小菅(現東京都葛飾区小菅)にも陣屋があり、家臣の代官を配置していた。

徳川家康の関東入府の際に伊奈忠次を関東の代官頭に任じたことに始まり、その後12代200年間に渡って伊奈氏が関東代官の地位を世襲した。
1692年(元禄5年)飛騨高山藩領地が天領となった際には6代忠篤が飛騨郡代も一時的に兼務した。また、7代忠順が富士山の宝永大噴火の際に飢民を救うために幕府の米蔵を開けた事で切腹を命じられたが、後年伊奈神社(静岡県小山町須走)に祀られ、新田次郎は彼を主人公とした小説『怒る富士』を執筆している。

本来、関東代官は勘定奉行の支配下にあったが、8代忠逵の代の享保年間には鷹場支配と公金貸付を中心とした「掛御用向」の地位に就き、1733年(享保18年)には勘定吟味役を兼任しており、関東代官は老中の直属支配下に入ることになる。更に12代忠尊の1785年(天明5年)には奥向御用兼帯となり、その2年後には小姓組番頭格となるど、他の郡代・代官とは別格の地位を築いた。

伊奈氏の「関東郡代」自称もこうした特殊な地位が背景にあったと考えられている。ところが、直後に伊奈氏の当主の地位を巡るお家騒動が発生、讒言によって1792年(寛政4年)3月に伊奈忠尊は関東代官を罷免、改易されてしまった。

<以下に、伊奈氏の関東代官、郡代一覧を紹介しておきます。以下の勘定奉行と比較してみてください。>

関東代官・伊奈氏

伊奈忠次(1590年 - 1610年)(関東代官頭)
伊奈忠政(1610年 - 1618年)(関東代官頭)
伊奈忠治(1618年 - 1653年)

<ここまでは、勘定奉行と兼務ということが解ります>
1632年に杉浦正友が勘定奉行に就任することで、職が区分されたようです。ただ、伊奈氏の関東代官は続きます。


伊奈忠克(1653年 - 1665年)
伊奈忠常(1666年 - 1680年)
伊奈忠篤(1680年 - 1697年)(飛騨郡代兼務)
伊奈忠順(1697年 - 1712年)
伊奈忠逵(1712年 - 1750年)(勘定吟味役兼務)
伊奈忠辰(1750年 - 1754年)
伊奈忠宥(1754年 - 1769年)(勘定奉行兼務)
伊奈忠敬(1769年 - 1778年)
伊奈忠尊(1778年 - 1792年)

<転載、以上>

さて、ここで関東代官が勘定奉行の支配下とあるので、全体を支配したのは勘定奉行というイメージが湧くでしょう。しかし、注意したいのは、江戸初期は、こうした役職は、変化に富んでいたのです。特に徳川家康の時代をその後の長い江戸時代と一緒にかんがえると間違いが生じます。改めて、勘定奉行とその歴史を観てみましょう。先ほどと同様に以下にWikipediaからの勘定奉行についての説明を以下に転載します。重要なのは、江戸初期17世紀初頭の勘定奉行に就任した人物です。

<転載部分>

勘定奉行(かんじょうぶぎょう)は、江戸幕府の職名の一つ。勘定方の最高責任者で財政や幕府直轄領の支配などを司る。寺社奉行・町奉行とともに三奉行の一つで、共に評定所を構成した。元禄年間までは勘定頭(かんじょうがしら)とも称した。評定所においては、関八州内江戸府外の訴訟について担当した。定員は約4人で役高は3000石。老中の下にあり、郡代・代官・蔵奉行などを支配した。(中略)

勘定奉行就任者

17世紀

大久保長安(1603年 - 1613年)
松平正綱(1609年 - 1648年)
大河内久綱
伊奈忠次
伊奈忠治

杉浦正友(1632年 - 1634年)
酒井忠吉(1632年 - 1635年)
伊丹康勝(1632年 - 1659年)
曾根吉次(1642年 - 1661年)
村越吉勝(1651年 - 1659年)
岡田善政(1660年 - 1670年)
伊丹勝長(1662年)
妻木重直(1662年 - 1670年)
松浦信貞(1666年 - 1673年)
杉浦正照(1668年 - 1680年)
徳山重政(1670年 - 1681年)
甲斐庄正親(1672年 - 1680年)
岡部吉昌(1675年 - 1678年)
大岡清重(1680年 - 1687年)
高木守蔵(1680年 - 1682年)
彦坂重治(1680年 - 1687年)
中山信久(1682年 - 1685年)
松平忠冬(1685年)
仙石政勝(1685年 - 1687年)
小菅正武(1687年 - 1688年)
佐野正周(1687年 - 1688年)
松平重良(1688年 - 1698年)
戸田直武(1688年 - 1689年)
稲生正照(1689年 - 1699年)
井戸良弘(1694年 - 1702年)
荻原重秀(1696年 - 1712年)
久貝正方(1699年 - 1705年)
戸川安広(1699年 - 1708年)

18世紀

中山時春(1702年 - 1714年)
石尾氏信(1705年 - 1708年)
平岩親庸(1708年 - 1713年)
大久保忠香(1708年 - 1716年)
水野忠順(1712年 - 1719年)
水野信房(1713年 - 1723年)
伊勢貞勅(1714年 - 1721年)
大久保忠位(1716年 - 1723年)
駒木根政方(1719年 - 1732年)
筧正鋪(1720年 - 1734年)
久松定持(1723年 - 1729年)
稲生正武(1723年 - 1731年)
松波正春(1729年 - 1736年)
細田時以(1731年 - 1737年)
杉岡能連(1731年 - 1738年)
松平政澄(1732年 - 1734年)
神谷久敬(1734年 - 1749年)
石野範種(1734年 - 1737年)
河野通喬(1736年 - 1742年)
神尾春央(1737年 - 1753年)
桜井政英(1738年 - 1739年)
水野忠伸(1738年 - 1744年)
木下信名(1739年 - 1746年)
萩原美雅(1743年 - 1745年)
逸見忠栄(1744年 - 1748年)
松浦信正(1746年 - 1753年)
曲淵英元(1748年 - 1757年)
遠藤易続(1749年 - 1751年)
三井良龍(1749年 - 1751年)
永井尚方(1752年 - 1753年)
一色政�檗�1752年 - 1765年)
松平忠陸(1753年 - 1754年)
大井満英(1753年 - 1756年)
大橋親義(1754年 - 1758年)
中山時庸(1755年 - 1757年)
細田時俊(1756年 - 1759年)
菅沼定秀(1757年 - 1758年)
稲生正英(1758年 - 1760年)
小幡景利(1758年 - 1761年)
石谷清昌(1759年 - 1779年)
坪内定央(1760年 - 1761年)
安藤惟要(1761年 - 1782年)
牧野成賢(1761年 - 1768年)
小野一吉(1762年 - 1771年)
伊奈忠宥(1765年 - 1769年)
松平忠郷(1768年 - 1773年)
川井久敬(1771年 - 1775年)
太田正房(1773年 - 1778年)
新見正栄(1775年 - 1776年)
桑原盛員(1776年 - 1788年)
山村良旺(1778年 - 1784年)
松本秀持(1779年 - 1786年)
赤井忠晶(1782年 - 1786年)
久世広民(1784年 - 1797年)
柘植正寔(1786年 - 1788年)
青山成存(1786年 - 1787年)
根岸鎮衛(1787年 - 1798年)
久保田政邦(1788年 - 1792年)
柳生久通(1788年 - 1817年)
曲淵景漸(1788年 - 1797年)
佐橋佳如(1792年 - 1794年)
間宮信好(1794年 - 1797年)
中川忠英(1797年 - 1806年)
石川忠房(1797年 - 1806年、1819年 - 1828年)
菅沼定喜(1797年 - 1802年)
松平貴強(1798年 - 1799年)
小笠原長幸(1800年 - 1812年)

19世紀

松平信行(1802年 - 1812年)
水野忠通(1806年 - 1810年)
永田正道(1810年 - 1811年)
肥田頼常(1810年 - 1815年)
有田貞勝(1811年 - 1812年)
曲淵景露(1812年 - 1816年)
小長谷政良(1812年 - 1814年)
岩瀬氏紀(1814年 - 1815年)
榊原忠之(1815年 - 1819年)
服部貞勝(1816年 - 1819年)
土屋厳直(1816年 - 1819年)
古川氏清(1816年 - 1820年)
村垣定行(1818年 - 1832年)
遠山景晋(1819年 - 1820年)
松浦忠(1820年 - 1823年)
曽我助弼(1823年 - 1835年)
土方勝政(1828年 - 1836年)
内藤矩佳(1829年 - 1841年)
明楽茂村(1832年 - 1841年)
大草高好(1835年 - 1836年)
神尾元孝(1836年 - 1837年)
矢部定謙(1836年 - 1838年)
深谷盛房(1837年 - 1841年)
遠山景元(1838年 - 1840年)
佐橋佳富(1840年 - 1842年)
梶野良材(1840年 - 1843年)
田口喜行(1841年)
土岐頼旨(1841年 - 1842年)
松平政周(1841年)
跡部良弼(1841年 - 1844年)
戸川安清(1842年 - 1844年)
岡本成(1842年 - 1843年)
井上秀栄(1842年 - 1843年)
佐々木一陽(1843年)
鳥居忠耀(1843年)
石河政平(1843年 - 1855年)
榊原忠職(1843年 - 1844年)
中坊広風(1844年 - 1845年)
松平近直(1844年 - 1857年)
久須美祐明(1844年 - 1850年)
牧野成綱(1845年 - 1848年)
池田頼方(1848年 - 1852年)
伊奈忠告(1850年)
一色直休(1850年 - 1852年)
本多安英(1852年 - 1858年)
川路聖謨(1852年 - 1858年)
田村顕彰(1853年 - 1855年)
水野忠徳(1854年 - 1857年)
石谷穆清(1855年 - 1858年)
土岐朝昌(1857年 - 1859年)
永井尚志(1857年 - 1858年)
佐々木顕発(1858年 - 1859年)
立田正明(1858年 - 1859年)
大沢乗哲(1858年 - 1859年)
山口直信(1859年 - 1860年)
松平近韻(1859年 - 1860年)
堀越元邦(1859年 - 1861年)
松平康正(1859年 - 1862年)
竹田斯綏(1859年 - 1860年)
酒井忠行(1860年 - 1862年)
小笠原長常(1860年 - 1862年)
一色直温(1861年、1862年 - 1863年)
竹内保徳(1861年 - 1864年)
根岸衛奮(1861年、1864年)
小栗忠順(1862年、1862年 - 1863年、1864年、1865年 - 1868年)
川勝広運(1862年 - 1863年)
津田正路(1862年 - 1863年)
都筑峯暉(1862年 - 1864年、1866年 - 1868年)
松平康直(1863年 - 1864年)
立田正直(1863年 - 1864年)
木村勝教(1863年 - 1864年、1867年 - 1868年)
斉藤三理(1864年)
有馬則篤(1864年)
鈴木重嶺(1864年)
大久保忠寛(1864年)
松平正之(1864年 - 1865年)
駒井朝温(1864年、1865年 - 1866年)
井上清直(1864年 - 1866年)
松平康正(1864年 - 1865年)
土屋正直(1864年 - 1865年)
小笠原政民(1865年 - 1866年)
井上義斐(1865年 - 1866年)
小栗政寧(1865年 - 1868年)
小笠原広業(1866年、1866年 - 1867年)
服部常純(1866年 - 1867年)
朝比奈昌広(1866年 - 1867年、1868年)
浅野氏祐(1866年 - 1867年)
塚原昌義(1866年 - 1867年)
星野成美(1866年 - 1867年、1867年 - 1868年)
溝口勝如(1867年)
河津祐邦(1867年)
栗本鯤(1867年)
織田信重(1867年 - 1868年)
小出秀実(1867年 - 1868年)
羽田正見(1867年)
小野広胖(1867年 - 1868年)
岡田忠養(1867年 - 1868年)
佐藤清五郎(1867年 - 1868年)
加藤余十郎(1868年)
菊池隆吉(1868年)
松平信敏(1868年)
松本寿太夫(1868年)
平岡準(1868年)
原弥十郎(1868年)
木村喜毅(1868年)


<転載、以上>

徳川家康の関東入府は、1590年です。まず、大久保長安が全ての幕府領管理の全権を掌握したのです。その後、伊奈忠次も関東代官=勘定奉行という形でその権限を与えられたのが解ります。以下に当時の幕府直轄領がどの程度の規模だったかをイメージできるように当時の大名配置図をご紹介しておきます。
要は、この関東のほとんどをこの大久保長安から、伊奈忠次にいたる人物たちに任せたのです。この人物が何をしたかが、そのまま、徳川家康、江戸初期の幕府が何を関東域(多摩を含む地域)に求めたかということになります。


<江戸初期の大名配置図>



3)鷹狩地、草刈地としての多摩を読む

実際に多摩地区は、まだ、徳川入府直後は、単なるススキやカヤの草原だったようです。鷹狩には、見通しの効く草原こそが最適な環境だったこともあり、見渡す限りの草原だったようです。

■この時期の多摩を本サイトの別カテゴリーの井の頭恩寵公園の江戸時代の植生研究(こちらの玉川上水開通までの江戸幕府の多摩地区の支配)で見ることができます。

<この項 了>