【武蔵野台地を潤した玉川上水が開通した当初、地域に与えた影響とは】

一応、玉川上水の開設に関する基本的な概要を以下に紹介しておきます。

<玉川上水の開設経緯について、Wikipediaより、転載>

『玉川上水起元』(1803年)によれば、承応元年(1652年)11月、幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画された。工事の総奉行に老中で川越藩主の松平信綱、水道奉行に伊奈忠治(没後は忠克)が就き、庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が工事を請負った。資金として公儀6000両が拠出された。
幕府から玉川兄弟に工事実施の命が下ったのは1653年の正月で、着工が同年4月、四谷大木戸までの本線開通が11月15日とされるが、1653年2月10日着工、翌年8月2日本線開通とする史料もある。

(中略)

約半年で羽村・四谷大木戸間を開通し、承応2年(1653年)11月に玉川上水はついに完成。翌承応3年(1654年)6月から江戸市中への通水が開始された。しかし、工費が嵩んだ結果、高井戸まで掘ったところでついに幕府から渡された資金が底をつき、兄弟は家を売って費用に充てたという。
庄右衛門・清右衛門は、この功績により玉川姓を許され、玉川上水役のお役目を命じられた。

<転載、以上>

開設は、承応元年から、2年(1653年)に渡るの工事のようです。その当初の目的は、江戸の飲料水不足の解決で、流域の上水や農業用水としての需要を満たすためではなかったようです。その意味では、多摩地域にその恩恵があったというよりは、工事のために必要な労力が地域から求められたということが影響を与えたと考えた方がよさそうです。