【小金井の数少ない観光資源である「玉川上水の桜」について知る】


●小金井市の公式サイトにある「名勝小金井(サクラ)復活プロジェクト」のページは、こちらから、ご覧いただけます。

●名勝・小金井桜の会の公式サイトは、こちらをご覧ください。

<上記、小金井桜の会の公式サイトより、小金井桜の概要を以下に転載。誤植や一部の間違っている部分は赤字で修正しています。>

名勝・小金井桜とは

名勝 小金井桜の起源は元文2年(1737年)江戸幕府の新田開発の一環として玉川上水の両岸に植樹されたヤマザクラの並木です。奈良県の吉野山と茨城県桜川から取り寄せたとされる由緒ある桜です。このヤマザクラの並木は、江戸時代から地元の農民たちにより守られてきましたが、幕府の代官たちも雑木の伐採や桜の苗木の補植を進めるなど、桜を守る努力を続けてきました。今、危機的状況にある国の名勝「小金井桜」を私たちの代で絶やすことなく、後世に引き継がなくてはなりません。
明治時代の有名な植物学者三好学博士の研究により、玉川上水堤の小金井桜のヤマザクラ並木は天然変種の一大集積地であることが明らかになりました。大正3年奈良の吉野山、茨城の桜川と一緒に名勝として指定されました。


時代変遷

<江戸時代>
 
元文2年(1737年徳川吉宗の時代)、幕府の命により、府中押立村名主の川崎平右衛門が吉野や桜川から山桜の名品を取り寄せ、農民たちが協力して植樹。
文化〜天保年間(1804〜1844年)、多くの文人墨客が観桜に訪れる。『江戸名所図会』や広重の錦絵に描かれ、庶民の間にも有名になる。

【江戸名所図会 小金井橋】
説明文:「小金井橋は、小金井邑の地に傍うて流るるところの玉川上水の素堀に架すゆえに、この名あり。岸をはさむ桜花は数千株の梢を並べ、落英繽紛たり。開花のとき、この橋上より眺望すれば、雪とちり雲とまがひて、一目千里前後尽くる際をしらず。よって都下の騒人遠きを厭わずして、ここに遊賞するもの少なからず。橋頭、酒を暖め茶を煮るの両三店あり。遊人あるいは憩いあるいは宿す。」


【歌川広重「富士三十六景 武蔵小金井」】


<明治時代>

幕末の動乱期を経て、明治22年(1889年)に甲武鉄道(元JR中央線)が開通しました。当時、武蔵境と国分寺に停車場が置かれ、花見時期には鉄道会社は割引切符を発行、臨時列車を増発し東京から花見客を誘致して日曜日には数千人もの行楽客が訪れました。

【甲武鉄道乗車券<境村>】

【小金井桜の説明部分の拡大】


玉川上水付近の新田農家はにわかに花見茶屋に変身し、一年分の農業収入に匹敵するほどの稼ぎを得て、地域経済は大いに潤いました。やがて甲武鉄道は国有化され、大正15年(1926年)に武蔵小金井駅が誕生しました。
大正13年(1924年12月9日)国の名勝に指定。昭和初期まで花見の名所として賑わう。


<昭和>

戦後は昭和27年(1952年)に上水堤に桜祭りが復活しますが、並木の衰えは著しく、三好学博士が命名した富士見桜や日の出桜よいった多くの銘木がすでに失われていました。昭和40年代に入ると、小平監視所下流の玉川上水の通水が停止され、水路や桜並木の荒廃が始まり、わずか20数年でケヤキなどの雑木が繁殖して雑然とした景観に変り果てました。昭和61年(1996年)に下水処理水の放流により上水の崩壊はかろうじて免れましたが、生育環境の悪化によりサクラの枯死が促進されています。

<転載、以上>

【江戸・嘉永年間の桜補植】


玉川上水の関野橋には、江戸の嘉永年間にこの玉川上水の桜の補植を行った「田無村名主の下田半兵衛」についての「桜樹接種碑」があります。


小金井橋から1.5kmほど、川下に下った玉川上水に架かっている関野橋(『上水記』に記されている橋)の近くに石碑があります。


享保9年(1724)下小金井村の名主関勘右衛門が玉川上水の北側、現在の関野町一、二丁目一帯を開拓しました。その名に因んで関野新田と呼ばれ、橋も関野新田橋と称され、後に関野橋と改称。現在の橋は昭和41年(1966)に架設されたものです。

この関野橋から30mほど下った左岸に、山型をした自然石の『桜樹接種碑』が建立されています。
正面に「さくら折るべからず 槐字道人」と彫られています。江戸時代・嘉永四年(1851)三月に田無地区41ヵ村惣名主・下田半兵衛が建立したもので、槐字道人(下田半兵衛)の名前が見られます。

同石碑の裏面は「桜樹接種記」と題して、玉川上水が開削されて以来、流域の村々がその桜の恩恵に浴してきたことや、両岸に桜を植えたいきさつ、その後、桜の名所として名声を高めたこと。また、天保15年(1844) には、十三代将軍家定(当時は将軍になる前で正式には、家祥<いえさち>)が観桜に訪れた(御成り)こと。その後、朽ちる木も多くなったことに心痛めて、上水を管理する持ち場村に命じるなど、桜の苗木の補植に協力してくれたことが彫り込まれています。


【詳細は、東京都公文書館だよりの第24号の「江戸名所花暦〜金橋桜花の補植と地域住民〜」にある小金井桜の記載が詳しく伝えています。同記事を以下にその部分を転載します。】

<前略>
しかし残念ながら、名所としての普及が遅れたため、行楽客で賑わうようになった享和期(1801〜03)頃には枯木化が目立ち始めていました。
それまでも心ある地域住民の手によって部分的に植樹が行われたと言われていますが、抜本的な対処が行われないまま月日が経ち、文政期(1818〜30)には朽ている木も多くて花の数もまばらになっていると記されるまでに至ってしまいました。

<当時に描かれた小金井桜の枯れて疎らな様子
安藤広重 江戸近郊八景「小金井橋夕照」 国立国会図書館所蔵・国立国会図書館デジタル化資料より転載>


○地域住民による補植事業

小金井桜の一つの転機となったのが、天保15年(1844)の徳川家祥<いえさち>(のちの 13 代将軍・家定)による御成りでした。
嘉永3年(1850)正月、周辺地域を管轄する代官大熊善太郎より、武蔵国中にまたとない花の名所となり、先頃は家定の御成りもあったことから、土地の誉れである桜並木を後世へ伝えることの功績はこの上なく大きいということで、桜樹の補植が指示されました。これにより、地域住民の手によって、嘉永3年と安政3年(1856)の二度にわたり、大規模な補植が行われることとなったのです。
玉川上水堤の管理は特殊で、上水沿いの村々と土手堤の敷地とは分離され、幕府より堤敷の 秣まぐさ(肥料や飼料とする雑草)の伐採が認められた村が管理を行っていました。
南岸は桜並木沿いの村が分割して堤敷を管理しましたが、北岸は桜並木の範囲全体を田無村(西東京市)が担当していました。そのため、桜の補植も沿岸村々ではなく、土手堤を管理していた村々によって行なわれたのです。嘉永3年には、北岸は田無村 131本、南岸は境新田13本、梶野新田(小金井市)40本、下小金井新田(小金井市)121本、鈴木新田(小平市)137本で、両岸で計442本の苗木が植樹されました。

安政3年の記録には詳細が示されており、北岸では補植後の桜樹が470本で、そのうち204本、南岸でも647本のうち288本がこの年に植付けた苗木とあります。この数値通りだとすると、両岸合せて桜樹が1,100本余りとなり、少なくともこの段階では名実ともに地域の人々が呼んでいたような「千本さくら」であったことがわかります。結果、2度の補植で934本の苗木が新たに植樹されたことになります。桜並木の8割強が若木となり、桜樹の世代交代が一挙に行われたといえます。
斯くして枯木の目立った桜並木は、見事にその優美な姿を取り戻すことが出来たのです。

○補植経費の負担

代官所からは、苗木代や肥やし代、人足賃など2度にわたる補植の経費を出すとの通達がありました。しかし、担当した村々の申し合わせにより、村の負担とすることとし、結果として肥やし代のみが代官所より下げ渡されることとなりました。このほかに、安政の補植に関連して、江戸市中への出張については、宿賃や番頭への付け届け、紙代が村の公費として計上されています。また、植樹作業に必要な縄や筵、御用杭、筆や墨のほか、代官所の役人が出張してくる際に掛かる宿賃、昼食代、お茶代も村々が負担していました。さらに、献上した苗木を内藤新宿まで運搬するための人足賃や車代も出しています。苗木の購入代金は詳しくはわかりませんが、田無村名主の下田半兵衛富宅が調べたところでは、丈が6尺(182�僉飽幣紊里發里廼�1匁5分くらいだということです。植付け手間賃は、1人につき約8本の植付けで銀3匁くらいであろうことも記されています。

○地域住民の意識の変化

桜の補植が土手堤を管理する村々に指示されたのに対し、その後の日常的な維持管理は地先村々をはじめ、周辺の村々にも及びました。特に、代官勝田次郎役所からは、管轄する代官の違いはあるが、「桜木は一体の義」のため、支配の枠組みを超えた管理体制が求められています。
日常の維持管理とは、枝を手折りする者の監視、倒木の届け出、部分的な補植、土手堤の芝野や雑木の整備、沿道の掃除などでした。
嘉永4年に下田富宅が関野橋付近に建立した「桜樹接種記」碑は、よく見られる漢文体の難読な碑銘と違い、仮名文体で理解しやすく刻まれています。
その内容は、自身や大熊の顕彰を主としますが、上水や桜樹の由緒・効能とともに、地域の人びとが力を合わせて成し遂げたことも刻まれており、後世へ語り継ぐことを目的としたものともいえます。
補植という一大事業とその後の日常的な維持管理を経て、幕府の植樹政策や江戸の行楽地整備という面だけでなく、地域のシンボルとして捉え返され、広く地域の人びとに認知されていったといえるのではないでしょうか。

【参考文献】
『東京市史稿』遊園篇・上水篇、『小平市史』近世編(小平市、2012年)、『小金井市史』資料編 小金井桜(小金井市、2009年)、工藤航平「近世後期の小平における地域文化の生成−名所・金橋桜花と俳諧文化」(『小平の歴史を拓く−市史研究−』第5号、2013年)


【転載、以上】


【三好学博士の桜研究から】

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国立国会図書館のデジタルコレクションにある

1)「日本桜花図説」は、こちらから、ご覧いただけます。

2)「桜花図譜 上巻」は、こちらから、、「桜花図譜 下巻」は、こちらから、ご覧いただけます。

3)「桜花概説」は、こちらから、ご覧いただけます。


【川崎平右衛門について】

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<この項、続く>