【観察日記:2015年1月19日・28日】

◆冬に万葉池を歩く◆

「万葉池の周辺を歩く」マップでもこの時期に花を観れる可能性のあるのは、「梅」だけです。落ち葉に被われた万葉池の真ん中の島にある梅と西側に数本あるとされる「梅」探しました。

●現在の万葉池●撮影:2015年1月19日



◆西側に蕾が膨らみ、咲き始めた梅がありました。万葉池の真ん中の島の梅と対岸の南側の梅は、よく見ることができなかったのですが、以下の写真のように西側の道に面した一本の梅の木(白梅)に花が咲き始めていました。◆

◆3月〜4月に開花する「コノデガシワ(児手柏)」(17番)と「ツバキ(椿)」(11番)、「アシビ(馬酔木)」(3番)、「ヒノキ(檜)」(13番)もチェックしておいた方がよさそうです。◆
(以下のマップでは、7番が「梅」です。)



【白梅が開花】

●白梅が開花>1月19日●


●白梅がさらに開花>1月28日●



●その他の梅(紅梅)は、まだ蕾でした。>1月28日●
<池の真ん中の梅の木>

<まだ、蕾だけのようです>


●開花している西端の白梅以外のその周辺の紅梅も、まだ蕾でした。


【椿が開花】

<マップにあるツバキ以外にも南東の角に数本の椿があり、開花していました>





1)万葉集に詠われた「梅」について、学ぶ

●梅に関する本サイトの花研究は、こちらから、ご覧いただけます。
●本サイトの同研究の風土区分:日本にある万葉集の梅の歌についての研究は、こちらから。

●万葉集の「梅」の歌>万葉集で詠われている梅は、白梅だけでした。この時代にはまだ、紅梅はに登場してきません。

●「万葉池の周辺を歩く」(散策ガイドマップ)に掲載されている万葉の歌は、

雪の色を奪いて咲ける梅の花
今盛りなり見む人もがも(巻五・八百五十)

です。

<歌の解説>

この和歌は、大伴旅人の歌った大宰府で天平二年正月(現在の二月)に催した「梅花の宴」の梅花の和歌三十二首の中の「後追和梅歌四首」の二番目の歌です。競って参加者と詠った後に、改めて、旅人が付け加えた四首の歌です。
万葉集の研究者の中には、この四首を「万葉集においては、極めて珍しい、自然的発生詠としての象徴的な歌である(杉浦茂光・中京大学・美夫君志会)」として、「昇任と帰京を乞い願うものとして現れてきている。だが、それはあから様な物言いでなく、自身を梅に例えた象徴的技法を用いており、この様な歌は万葉の中に殆ど見られず、旅人の歌の詠み方として特徴付けられると結論付ける。(同杉浦氏)」と解析している方もいるようです。


●中京大学文学部の万葉研究などの「美夫君志会」のサイトは、こちらから。


●この万葉の和歌や万葉集の梅歌関連の本サイトで気になった研究論文を以下にご紹介します。是非、ご覧ください。

1)成城学園の小林真由美氏の花(梅)を「かざす・飾す」という表現と行為を万葉集の大宰府での「梅花の宴」を最初として、その後の和歌も含めて展開された研究>こちらから。

2)「追和」という和歌の形式を論じた駒澤大学の平敏功氏の論文は、こちらから。

2)万葉集に詠われた「椿」について、学ぶ

●椿に関する本サイトの花研究は、こちらから。

●「万葉池の周辺を歩く」(散策ガイドマップ)に掲載されている万葉の歌は、

巨勢山のつらつら椿つらつらに
見つつ偲はな巨勢の春野を(巻一・五四)

です。

<歌の解説>
上記のガイドマップの訳は、

「巨勢山の、花が連なって咲く椿、今は咲いていない木だけのこの場所で、つくづくと見ながら偲ぼうよ、巨勢の春野のことを」

です。この歌は、巻一の歌で、坂門人足(さかとのひとたり)が詠った歌とされています。この歌には、 「大宝元年辛丑秋九月、太上天皇の紀伊国に幸せる時の歌」という詞書があり、大宝元年(701年)9月、持統上皇の紀伊国行幸に従駕し、大和国巨勢(現在の奈良県御所市古瀬)で詠まれたことがわかります。当然9月には、椿の花を見ることはできず、春の椿を偲ぼうという意味です。また、万葉集左注に「或本歌」(この歌の元になった歌)として、

河上のつらつら椿つらつらに見れども飽かず巨勢の春野は
(巻一・五六)

という歌を挙げ、春日蔵首老の作としています。この歌では、素直に巨勢の連なって咲く椿の見事さをいくら見ても飽かないと詠っており、その歌に対しての歌が五四の歌です。

【春日蔵老とは】

春日蔵老(かすがのくらのおゆ)は、生没年未詳で法名は、「弁基」。大宝元年(701)三月、朝廷の命により還俗させされ、春日倉首(かすがのくらのおびと)の姓、老の名を賜わり、追大壱の位を受けています。この時の法名は弁紀。和銅七年(714)正月、従五位下に昇叙されます。『懐風藻』に五言詩一首を載せ、「従五位下常陸介春日蔵老」とあり、「年五十二」(卒年)とある。万葉集に8首が収録されています。(「春日歌」「春日蔵歌」を老の作とした場合が8首です)


次にこの巨勢という地を知っておきましょう。この地は、吉野の手前で、紀伊国への通り路になります。古代の豪族巨勢氏の支配地でもあります。その巨勢氏の氏寺が巨勢寺です。


【巨勢寺について】


<Wikipediaより、転載>

巨勢寺塔跡(こせでらとうあと)は奈良県御所市古瀬にある仏教遺跡。国の史跡。

【塔跡】

吉野口駅の北東方向、JR和歌山線と近鉄吉野線に挟まれた畑にある周辺を椿などの木々に囲まれている場所にある。
塔跡には心礎(心柱の礎石)が一つ露出している。心礎は、約1.3メートルの大きさで、直径88センチメートル、深さ12センチメートルの円形の柱孔を穿ち、さらにその中央部には直径13センチメートル、深さ6センチメートルの舎利納孔が穿ってある。舎利納孔の周りには三重の溝が切ってあり、これらの溝を結ぶ排水溝が西方向へ掘られている。

1927年(昭和2年)に国の史跡に指定された。どのような規模の塔だったかは不明だが、正福寺に保管されている巨勢寺の伽藍図「和州葛上郡古瀬邑玉椿山図」には五重塔が描かれている。現在は近くに大日堂と呼ばれる小さな堂がある。

【巨勢寺】

現在も残る子院の一つ、阿吽寺縁起によれば、巨勢寺は聖徳太子の創建とも伝えられるが、詳しい創建時期と理由は不明。出土した瓦は、飛鳥時代後期のものとみられ、今の御所市古瀬付近を本拠地とした古代の豪族巨勢氏の氏寺として大伽藍の寺院が創建されたと考えられている。

日本書紀にも寺名が見られる(日本書紀巻第二十九、朱鳥元年(686年)8月巨勢寺封二百戸)。平安時代には興福寺の末寺となったが、鎌倉時代に所有財産を春日大社に寄進しており、その頃から荒廃し廃寺となったようである(「廃巨勢寺別当領水田寄進状 徳治3年(1308年)7月」が残る)。

【関連する寺院】

玉椿山阿吽寺(ぎょくちんさんあうんじ)

平安時代に巨勢川(曽我川)が氾濫し村人が窮していたところへ阿吽法師なる人物が現れて、これを救った。村人は法師を崇めて「玉椿精舎(=巨勢寺)」の一坊に寺を構えさせたと伝わる。しかし、1362年(南朝:正平17年、北朝:貞治元年)に火災で全焼し荒廃する。江戸時代に一度、再建されて高野山真言宗の末寺となったが、再び荒廃し1872年(明治5年)に廃寺となった。その後、1880年(明治13年)に村人の手によって仮堂が建てられ、正福寺に預けられていた仏像を迎えて再興する。安曇仙人修行の地として伝えられる。多くの椿が植えられ名所としても有名。

冬野山正福寺

浄土真宗。江戸時代までは勝福寺とも。山号は巨勢寺門前の冬野春野の庭名から名付けられたとも。境内には巨勢寺跡から移した礎石があり、また巨勢寺の古仏像や巨勢寺の伽藍図「和州葛上郡古瀬邑玉椿山図」を所蔵し今に伝えている。


<転載、以上>

<この項、了>