「谷の国」を考える
司馬遼太郎氏は、連載エッセイ「この国のかたち」の第一巻で、「谷の国」という稿(19)を設けています。そして、その稿の結びは、以下の言葉です。
<この国のかたち(1):谷の国より転載>
この稿の主題は、漠然としている。
要するに日本は二千年来、谷住まいの国だったということをいいたかっただけで谷の国にあって、ひとびとは谷川の水蒸気にまみれて暮らしてきただけに、前掲の「老子」にいうことばが、詩でも読むように感覚的にわかる。
谷神(こくしん)は死せず、是を玄牝(げんぴん)という。玄牝の門、是を天地の根(こん)という。綿々として存ずる如し。之(これ)を用ふれども勤(つ)きず。
<転載、以上>
玄牝は、「神秘なる母性」という意味です。万物を生み出す母性の門と表現されています。
実は、この稿は、この国のかたち(一)では、前の「豊臣期の一情景」という稿を受けての稿なのです。この稿では、室町期に鉄などの普及によって、農業生産が飛躍的に拡大し、地侍層が成長し、農民をまとめる存在、農民にとって頼りになる存在となったのに対して、戦国期に秀吉は、検地によってその地侍層をつぶして、戦国大名の直接支配へと向かったことを語っています。
その稿を受けて、この「谷の国」の稿で、農民のための大名として、戦国期を開いた後北条氏からの系譜としての武田信玄の農業土木の手腕を取り上げ、甲斐の国(山梨県)の領国経営が谷からの水を利用した水田づくりという「農業土木」が鍵であったこと、それを多くの大名や地侍が引き継いだとしています。洪水を起こす厄介な谷であると同時にその地勢を農業土木で改良することで実り豊かな土地とした領国経営の優れた点と地侍層の活躍をその代表選手である「武田信玄」に注目することで説明しています。以下に武田信玄と地侍の結びつきと日本で独特に発達した「農業土木」について語っている部分を以下に転載します。
<転載部分>
信玄が成人することには、地侍たちの基礎が古めかしくなっていた。
甲斐は、細流の谷々ごとに集落があり、集落ごとに地侍がいた。ところが農業生産力が高まるにつて、農民が力をもちはじめ、“惣”という自治組織のもとで力をもち、地侍が宙に浮くようになった。
信玄の権力が確立したのは、惣にじかにむすびついたことである。浮いた地侍を俸禄によって自分の家臣団に組み入れ、直轄軍を強大なものにした。
谷々の惣のほうも国主の信玄のじかの支配をうけるようになって、利便をえた。たとえば、一筋の水をどの惣でつかうとなると、惣が谷々で割拠している場合、調整がつきにくい。その調整を国主である信玄にゆだねた。
また、谷々は、洪水が多い。堤防を築くには、長大な水流を一元的におさえる権力が必要だった。
信玄は、そのことをよく理解していた。
いまなおお役にたっている釜無川の龍王堤(俗に信玄堤)は、かれの政治感覚を示す代表的なものといっていい。
また信玄は激流を緩めるさまざまな構造物をその配下に考案させた。その種類は実に多いが、いづれも独創的なものだったらしい。
昭和十一年に日本土木学会が編纂した『明治以前・日本土木史(岩波書店)』にも「吾人(編者)が特に賞讃措く(おく)能(あた)わざる」ものとして大きく評価している。
信玄の様々な工事は隣国の惣からもうらやましがられた筈である。その勢力圏がひろがるにつれて、右の水勢を殺ぐ構造物が。駿河・信濃から、天竜川や大井川まで伝えられたらしい。
(中略)
以下、ついでのことだが、外国には農業土木という言葉もそういう学問の分野もないという。このため適当な外国訳が見当たらぬまま、日本農業土木学会では、
「NOGYODOBOKU」
と日本語のままつかい、外国の学者もそれにならう人が多くなっているというおとを志村博康教授の論文で知った。
<転載、以上>
武田家と地侍の家臣としての取り込み、そして農業土木技術、この3点セットは、その後の江戸期を知るためにも重要なキーワードとなってきます。
<この項、了>
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