江戸歌舞伎の「助六由縁江戸桜」や「籠釣瓶花街酔醒」などに登場する吉原(新吉原)の桜を知っている方の中は、吉原には、見事な桜並木があったことを知っていらっしゃる筈です。
大名庭園や寺社の境内の桜は、江戸時代有名な桜の名所として知られ、その一部は、いまでも公園として多くの人に親しまれています。
実際、新吉原の桜並木とはどのようなものだったのでしょう。
まず、「
助六由縁江戸桜」とは、どんな歌舞伎でどのように桜が登場するのかをお話とその歌舞伎絵でご紹介しましょう。舞台となった花街風景の背景に桜が見事に咲き誇っているのをご覧ください。日本芸術文化振興会の「歌舞伎への誘い」というサイトにある助六の解説と錦絵を以下にご紹介します。
助六由縁江戸桜「歌舞伎十八番」の1つで、通称『助六』とよばれています。
曽我五郎時致(そがのごろうときむね)は、花川戸の助六(はなかわどのすけろく)という侠客となって、源氏の宝刀友切丸(ともきりまる)を探し出すため吉原に出入りしています。三浦屋の傾城揚巻(あげまき)と恋仲になった助六は、吉原で豪遊する意休(いきゅう)という老人が、この刀を持っていることを聞きだし、奪い返すというストーリーです。<解説を部分転載>
この歌舞伎の錦絵(日本芸術文化振興会の公式サイト、より転載)を以下にご覧ください。その背景に見事な桜が描かれているのがわかります。

<日本芸術文化振興会のサイト「
歌舞伎への誘い」から画像を転載>
それでは、実際、歴史的な文献にはどのように記録されているのでしょう?
桜とその文化史を詳細に解説した文献に法政大学出版局刊行の
<ものと人間の文化史>シリーズ137、138の「桜 Ⅰ」「桜 Ⅱ」(有岡利幸著)があります。この文献でその新吉原の桜は、以下のように説明されています。「桜 Ⅱ」の明治の桜の章で以下のように説明されています。
<転載部分>
吉原仲の町の桜吉原仲の町の桜は寛延二(1749)年の春に鉢植えを飾ったのがはじめで、翌年から植えられるようになった。明治44(1911)年発行の「東都年中行事」によれば、
「桜は、
五代目の三河島の植惣が年々植え付けることになって今は、方々から美しいのを珍しいのを探してきて植える。今年の桜は、天の川、普賢桜、遅桜、南殿、長州緋桜、虎の尾、車返し、大提灯、鬱金桜など素人別して大凡二十四種、本当に分けると百十種、総数三百五十株、千余本もあって、なかには本郷あたりの大名屋敷から移した御衣黄や鬱金桜などの珍種もある」
と、珍しい桜が植えられていたことがわかる。
<転載、以上>
そして、この桜が明治7年に、
五勢楼主中村長兵衛が咲き終わった桜を例年花が終わると抜いて、薪にしてしまうのを惜しんで、近くの日本堤に植え替えて、日本堤の桜が桜の名所になったという話を説明しています。
始まったのが、寛延二年とすると徳川吉宗の治世、江戸中期ということになります。以後、どんどん珍しい桜を植えるようになり、その習慣は、明治にも続き、益々盛んとなったとしています。
これらの有岡氏が参考にした文献は、明治の文献です。このサイトでは、より正確をきすために、次に江戸時代の吉原や当時の江戸風俗や流行を取り上げた文献とその文献から研究、紹介されたものなどを次章以降で取り上げていきます。