トップ  >  花研究  >  「バラ科」研究  >  サクラ属(Prunus, Cerasus)  >  桜研究  >  風土区分:日本  >  時代区分  >  江戸時代の桜  >  遊郭の桜  >  新吉原 仲の町の桜(3) 始まりを知る:「洞房古鑑」から、由来を読む
それでは、何故、桜が植えられたのでしょう。「吉原大全」や「青楼雑話」では、鉢植えの桜を飾っていたのが、そのまま、外に植えるに発展していったように記述されています。それだけではない別な由来が寛延二年説の文献には記述されています。この章では、その始まりの由来を取り上げてみます。

1927年、江戸の風俗研究家、三田村 鳶魚が発行した「江戸年中行事」の中で「洞房古鑑」で仲の町の鉢植えの始まりとそれに関わった人々具体的に記述した部分やその他の文献などを取り上げ、解説しています。

<「洞房古鑑」仲之町鉢植からの転載部分>

寛延二年巳二月、茶頭共、五町名主へ申入候は、当月花盛の内、小き鉢植の物、店先に差置申度(さしおきをしたく)候、尤一様に出し候へば、気も宜しく賑いのためにも罷成(まかりなる)べく候旨申来候に付、五町相談の上、石台又は鉢に植候共、木の大なるは無用に致すべく候、唯今迄物干等に差置候、鉢植又は石台物など店先へ出し置候は、勝手に致すべく旨申渡候、同月より仲の町茶屋共、家の前へ桃或は桜を植、根に石台又は花壇をこしらへ、手摺を付、山吹つつじの類をあしらい、一様に仕立申候。

<転載、以上>

やはり、軒さきの鉢植えから発展して、五町町全体で桜を植えることにしたようです。桃やつつじ、山吹なども一緒に植栽して、手摺を付けて囲ったという記述です。
さらにその後、その当時、新吉原を統括していた町奉行に次第を聞かれ、しっかりと管理することを言い渡されたことも以下のように記述しています。


<転載部分>

同月十九日名主共、今昼九時前、能勢肥後守様(町奉行)へ罷出づべく旨、御使に付、江戸町一丁目名主仁左衛門、同二丁目名主佐兵衛、角町名主庄兵衛、京町一丁目名主六右衛門、同二丁目名主喜右衛門罷出候處、御白洲鼻へ召出され、仲の町の花の儀大行に風聞有之由、御尋に付、石台或は鉢只今迄植置候桃桜の類、店先え出候迄にて、曾て大行なる義にては御座なく候段申上候へば、其方共一町に一人宛罷在候へば定て大行なる義は致させ申間敷候、なおまた日限定めなく、御見分遣され、候間、左様に相心得申べく旨仰渡され候、依之(これによって)同夜名主共見廻り大なる木は枝を折り、目立候垣などは取り払はせ候。

<転載、以上>
正式に大事ないように見分した上で管理を各町の名主(名前も上げられています)たちが申しつけられたとしています。日付なども詳細に記述されています。
次の章では、その始まりのいわれを文久年間、
梧桐久儔<ごどうきゅうちゅう>(伏見町茶屋桐屋五兵衛)の中に書かれた「よし原春秋二度の景物(かげもの)」「仲之町に花を植る事」を取り上げて、説明していきます。
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