<Wikipediaより転載>
飯倉(いいぐら、いいくら)は東京都港区麻布地域東部の歴史的地名。その指し示す範囲は時代によって異なるが、現在では主に旧飯倉町、飯倉片町を指す。凡そ飯倉町は東麻布一〜三丁目、麻布台一・二丁目、飯倉片町は麻布台三丁目、六本木五丁目東北角に当たる。
【歴史】
<地名の由来>
江戸時代には、飯倉御厨において伊勢神宮への神饌を収める倉に由来する説を採る物が多い。御厨成立後に飯倉の名が出たことになり不審だが、現在の芝大神宮は往古飯倉神明と呼ばれ、寛弘2年(1005年)古く飯倉山と呼ばれた芝丸山古墳に伊勢神宮を勧請して創建されたと伝えられており、当地は飯倉御厨成立前から伊勢神宮と関係があった可能性もある。
また『江戸砂子』はある人によれば飯倉神明は古代の屯倉跡地だったとし、『日本書紀』宣化天皇元年5月1日条に見える穀倉ではないかとする。『新編武蔵風土記稿』もある人の話として文武天皇義倉説を載せるが、いずれも時代を遠く隔てた証言であり、信憑性に欠ける。
明治になり、吉田東伍は『大日本地名辞書』において、他の地域の飯倉地名に米蔵を由来とするものはないとして従来の説を斥け、米を盛った形のため名付けられた飯倉山が発祥であるとした。
飯倉御厨
実際の史料に飯倉の名が現れるのは、『吾妻鏡』元暦元年(1184年)5月3日条に源頼朝が伊勢神宮内宮荒木田成長へ飯倉御厨を寄進した記事が最初である。飯倉御厨は建久3年(1192年)8月の『神鳳鈔』にも存在が確認できる。
その後鎌倉時代を通じて史料には現れず、荒木田氏経『内宮引付』所収の寛正5年(1464年)8月9日内宮庁宣に名があるものの、文明元年(1469年)1月26日には飯倉御厨と相模国大庭御厨の代官による押領を太田道真・道灌に訴える書状が収録されている。これ以降史料には登場しない。
<転載、以上>