明治期に新宿御苑に渡来したとして、この当時の新宿御苑をまずは、知っておく必要があります。


<新宿御苑の公式サイトより、明治期の新宿御苑についての情報を以下に転載します。>

内藤新宿試験場と新宿植物御苑

明治5年、政府は内藤家から上納された土地と買収した隣接地を合わせた58.3haの敷地に、我が国の近代農業振興を目的とする「内藤新宿試験場」を設置しました。

ここでは欧米の技術や品種を含めた果樹・野菜の栽培、養蚕、牧畜などの研究が幅広く行われました。そして明治7年には内務省の所管となり、新たに教育施設として農事修学所(明治10年駒場に移り、のちの東京大学農学部などの前身である駒場農学校となる)が設置されました。

新政府の農業振興政策拡充のなかで、内藤新宿試験場は、その幅広い役割の一部を他に移し、明治12年、宮内省所管の「新宿植物御苑」として新たなスタートをきることになりました。

江戸から明治への大変革期において、この広大な内藤家の屋敷跡の一部が内藤新宿試験場として確保されなければ、今日の新宿御苑は存在し得なかったと言えます。  新宿植物御苑の時代には、現在日本庭園となっているところを中心に鴨池、養魚池、動物園(大正15年上野動物園に下賜)が造られるなど、皇室の御料地・農園として運営がなされました。

模範的な農場づくりをめざした果樹・野菜などの栽培研究は継続され、我が国で始めての温室を用いたラン等の花きの栽培を行うなど、欧米の園芸の輸入や民間への技術の普及にも力を入れました。

また、早くからヒマラヤシーダー、ユリノキ、プラタナスなど多くの外国産樹木を取り寄せて植栽が行われ、明治29年には西洋庭園に面して洋風建築の休憩所(旧御休所)も建てられました。  現在の御苑のたたずまいは、この頃の所産とも言えます。

このように内藤新宿試験場・新宿植物御苑の時代は、我が国の近代農業、特に園芸の発展にとって極めて重要な役割を果たしました。

新宿御苑の誕生

明治31年に新宿御苑の責任者となった福羽逸人は2年後の明治33年、パリの万国博に菊の大作り3鉢を出品し、大好評を得ました。この時ベルサイユ園芸学校教授、アンリー・マルチネーに植物御苑を庭園に改造する計画の設計を依頼しました。

当時の設計図は残念ながら昭和20年の空襲で焼失してしまいましたが、マルチネーが描いた鳥瞰図を見ると中央右側の建物をのぞいてほぼ現況に近いため、マルチネーの設計に従って造られたと考えられます。
新宿御苑は明治35年から4年の歳月をかけて明治39年(1906)5月に完成し、明治天皇の御臨席のもとに日露戦争の戦勝祝賀を兼ねた開苑式が催されたとのことです。

新宿植物御苑を大改造し、新宿御苑を造成する計画が実現されるまでの経緯は定かではありませんが、若くして西欧の花きや果樹園芸を学ぶためにフランスやドイツに留学するなど欧米の園芸全般に通じていた福羽の存在が大きな影響を及ぼしたのではないかと想像されます。

<転載、以上>