最初に日本に渡来したユリノキの種子から、育ったものとして、新宿御苑(当時は、内藤新宿試験場)のユリノキがあります。

内藤新宿試験場のユリノキ

このユリノキについて、調べ、どのようなきっかけから日本に渡来し、植林に至ったのかを調べていきます。以下に「公園・神社の樹木(渡辺一夫著)」」から、そのユリノキについての記述を以下に転載します。

<転載、部分>

新宿御苑のある場所(東京都新宿区内藤町)は、そもそも江戸時代には、高遠藩主であった内藤氏の江戸屋敷であったのだが、明治五年に国の農業試験場(内藤新宿試験場)となり、果樹・野菜の栽培、養蚕、牧畜などの研究が幅広く行われるようになった。
樹木の研究も行われ、試験場内に様々な種類の樹木が植えられた。このため、現在でも農業試験場の時代に研究のため植えられ、今や巨木に育った、ユリノキ、プラタナス、ヒマラヤシーダー、ラクウショウ、アメリカキササゲ、タイサンボクなどの木を見ることができる。

(中略)

この芝生広場の傍らに、天を衝くように一本の大きなユリノキがそびえている。苑内にはさまざまな巨木があるが、もっとも高く、そして公園の中心に鎮座している感があるのが、このユリノキである。
このそびえ立つユリノキの姿は、見ごたえがあるが、そのそばには、別の三本のユリノキが身を寄せ合って、まるで一本の巨大な木であるかのように生い茂っている。こちらも圧巻である。
高さ三十メートルを超えるこれらのユリノキは、明治六年頃に輸入され植えられた日本最古のユリノキである。

(中略)

新宿御苑のユリノキは、明治六年頃に北米から輸入された日本最古のユリノキであり、この木の種子から日本中のユリノキが広まった。つまり新宿御苑のユリノキは、日本中に広まったユリノキの母親といっていい木である。
さまざまな場所に植えられた新宿御苑のユリノキの二世も、今ではすでに大きく育った。赤坂の迎賓館前には、街路樹の中でも特に美しいといわれているユリノキの並木がある。この並木は、旧東京御所が完成した翌年の明治43年に、新宿御苑のユリノキの種子から育った苗木が植えられたものだ。

また、上野の東京国立博物館の正面玄関前には、のびのびと樹冠を広げる一本のユリノキの巨木がある。高さ三十メートルを超えるこのユリノキは、昭和13年の博物館完成時に植物学者の牧野富太郎が推薦したことによって植えられた木である。その種子はやはり新宿御苑のユリノキのものだ。

<転載、以上>

上記、書籍の記述の参考文献として、
「ユリノキという木 魅せられた樹の博物誌(毛藤勤治他著、アボップ社出版局刊行)」が上げられているので、再度この書籍も調べてみたいと思います。以下にWeb上で調べたこの当時の明治政府の政策をご紹介します。



明治の農業史に当時の欧米からの樹木輸入を見る

明治六年頃に内藤新宿試験場に植えられたとされるユリノキですが、そのきっかけはどうだったのでしょう?誰が、この樹木を選び、その目的はなど、まだ不明です。以下にWikipediaにある「農業」の一項目「農業史」があり、その中の明治初期の事情が掲載されています。その部分を以下に転載します。

<Wikipediaより、転載>

日本の農学史

日本では、明治3年9月、民部省に勧農局が置かれ、その三カ月後名を開墾局と改められ、民部省が農学校を設立すること、外国人を雇うこと、度器具や種苗を米国から購入することなど半年の間に太政官に上申し、米人一名は上申の翌月雇い入れられた。ところが農学校設立上申は太政官に認められるが、実現はしなかった。

明治4年4月、開墾局ほ勧業局と名を変えてさらに陣容を整えたが、その夏には民部省が廃止され、大蔵省に移されて勧業寮、それも十三日目に変更され勧農寮という名に落着いた。わずか二カ月の問に五つの名を持ったわけであるが、さらに翌年には勧業寮を廃止、その事務は租税寮勧農課で担当することになった。

大蔵省は農事の改良を担当した明治4年のうちに、駒場に牧畜試験場を開き、米国から輸入した器具を用いて霞ヶ関で西洋の穀類や野菜の栽培を始めている。
その後大蔵省勧業寮の仕事はすべてその年11月に設置された内務省の勧業寮に引きつがれた。内務卿は帰国後ただちに西郷隆盛らの征韓論をつぶしたばかりの大久保利通である。後に内藤新宿試験場(現在の新宿御苑)となる土地、江戸時代以来の内藤家(当主頼直)の邸地九万八千坪を九千五百円、千駄ヶ谷、新宿地内の土地八万坪を二万一千円、合計17万8千坪(59ヘクタール弱)で購入、内藤家の土地よりも農地や民家のあった敷地の方が高値だったという。
一方、1871年(明治4年)開拓使次官黒田清隆がアメリカ合衆国よりホーレス・ケプロン他3名のお雇い外国人を連れ帰国、ケプロン等の進言を受け高等農業教育の動きが始まる。翌年の1872年(明治5年)には東京・芝に開拓使仮学校が開設される。のち1875年(明治8年)に開校する札幌農学校である。

農学分野の高等教育機関として明治の学制改革初期に登場するのは、この札幌農学校(明治9年開設)と、駒場農学校(明治11年開設)があげられる。
札幌農学校は、先にあるとおり北海道開拓使顧問となったケプロン(Capron、アメリカ農務長官)の提言に基づき、開拓事業を進めるための基本的機関の一つとして設けられるが、アメリカ西部開拓に範を求めて、マサチューセッツ (Massacbusetts) 農科大学学長のクラーク博士 (Clark) を教頭にして発足した。札幌農学校は予備科三年本科四年で構成され、農学の他に化学、数学、物理学などまで、自然科学の基礎を幅広く授けている。

駒場農学校は明治7年の議決を受けて翌年の明治8年、内藤新宿試験場が大久保利通の下に置かれて明治10年、試験場内に「農学修学場」が設けられることに端を発する。

近代農業への政府の意欲は、もう一つの試験場に現れている。明治4年に設置された開拓使の青山試験場で、三園に分れ、現在の青山学院大学のあたり二号地が園芸試験地、青山通りを隔てた二号地は穀物など、日赤病院付近の一三号地が畜産のために充てられた。
この試験場は、明治15年頃までに北海道に移るが、早くから米人教師が指導に当っていたという。

内務省勧業寮では1874年(明治7年)1月、牧場樹芸の二組がおかれ、3月、農事修学場を設置することとなり、4月には前の二掛に加えて製茶、農兵、農学の諸掛が置かれた。また前述の東京内藤新宿に勧業寮新宿支庁が置かれ、事業はさらに拡がりをみせる。支庁の目的は、「広く内外の植物を集めて、その効用、栽培の良否適否、害虫駆除の方法などを研究し、良種子を輸入し一冬府県に分って試験させ、民間にも希望があれば分ける」と言うような趣旨であった。さらにこの勧業寮新宿支庁内に設置していた内務省勧業寮内藤新宿出張所に蚕業試験掛と農事修学場を設立し修学場に獣医学、農学、農芸化学と農学予科、農学試業科等の教師を海外より招くことを議決した。
同年10月、新宿試験場内には農業博物館が完成。建物の詳細は不明であるが、種子や材木の見本、肥料、紙などの外に骨格標本、鉱物、土壌などもあったらしく、農業や動植物などの書籍や辞書に混じって青菜園まであったらしい。博物館のできた翌年にはその周囲に植物分類園が計画されていたようであるが、そのころ試験場内の植物は2163種もあったということなので、ある程度の分類見本園も造ることは可能であった。のちには整備が進み見学者も多くなったようで、縦覧規則が明治八年五月に定められる。当時、試験場の畑は、水田、穀類畑、成業園など七園に分れていたが、さらに桑畑、茶園などが加わり、明治10年には3150種の植物があった。

多くの植物は種子を欧米から買入れたほか、もっと前の旅行者が買ってきていたもの、ウィーン万国博覧会から博覧会事務局に持ち帰ったもの、清国まで出張して探してきたものなどさまざまで、疏菜の各種の種子や果樹苗などのほかに、ヒマラヤシダー、ラクウショウ、アメリカキササゲなど造園樹木の種子もあり、現在も残る大木の中にはこの頃の種子に由来するらしい。明治8年には外国果樹の実るものもあり、試作繁殖した苗は、リンゴが青森県へ、オリーブが小豆島に送られたほか110平方メートルはどの西洋式温室も完成する。これは開拓使青山試験場の温室とともに日本の挫什式温室の先駆けをなすものである。
この間農学修学場は本格的な農学の専門教育機関「農学校」として設立することが決まり、修学場農学係は第六課と改められて課長には田中芳男をすえ、富田禎次郎が副長となった。

<転載、以上>

どうも、まだはっきりはしないものの、明治7〜8年頃に米国から買い入れた種子によるものという可能性が高いようです。
当時、日本に帰国した岩倉使節団などの影響も考えられます。ただ、明治3〜4年には、外交的にもイギリス一辺倒だったものが、英米間の外交問題も含め、日本にも米国への傾倒が観られた時期でもありました。

その意味では、北米原産の樹木でもあり、黒田清隆が伊藤博文とともに米国に渡り、明治4年のお雇い外国人として米国より招聘したホーレス・ケプロン等の進言により、買い入れられたということも可能性があるので、その点も含めて、さらに調べていきたいと思います。

【ホーレス・ケプロンとは】

ホーレス・ケプロンは、マサチューセッツ州の豪農の家に生まれ南北戦争に北軍義勇兵として従軍後、アメリカ合衆国政府で農務局長となった人物で、1871年、渡米していた黒田清隆に懇願され、職を辞し、同年7月訪日。開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問となったことがわかっています。
当時、北海道に渡る準備として、東京府内に開拓使宮園(三ヶ所)を開き、輸入した各種の果樹や野菜、樹木を栽培試験しました。これが上記の青山開拓使宮園です。この栽培を指揮したのが、ケプロンにより選ばれたルイス・ベーマーというドイツ系アメリカ人の園芸技師でした。
このルイス・ベーマーについては、以下に詳細をご紹介します。この実宮園と内藤新宿試験場との関わりの詳細は、再度、後日文献を調べてみたいと思います。

【ルイス・ベーマーについて】<Wikipediaより転載>

ルイス・ベーマー(Louis Boehmer, 1843年5月30日 - 1896年7月29日)は、明治初期のお雇い外国人(ドイツ系アメリカ人)。開拓使に雇用され10年の長きに亘りリンゴなどの果樹栽培やビール用ホップの自給化、各種植物の生育指導などで北海道の近代農業発展に貢献した。ドイツ北部・ハンブルク近郊のリューネブルク生まれ。

【経歴】
リューネブルク市内のギムナジウム卒業後、宮廷庭師の下で修業を積みハノーファーの王室造園所などに勤務し王室の庭園への就職を目指していたが、1867年普墺戦争勃発による戦渦を避けてアメリカに渡り、ニュージャージーを振り出しに上級園芸家として各地の造園業者の下で働いた後、定住を決意しニューヨーク州ロチェスターのマウント・ホープ・ナーセリー(1840−1918)に就職した。

1871年(明治4年)1月に渡米した開拓使次官の黒田清隆の要請に応えて開拓使顧問に就いたホーレス・ケプロンは知人の園芸商ピーター・ヘンダーソンが推薦するルイス・ベーマーを果樹園芸、植物生育分野の技術者として雇用した。1872年(明治5年)来日後開拓使で北海道の西洋農業化に貢献した。

◆東京青山官園へ

開拓使の草木培養方として雇われたルイス・ベーマーはサンフランシスコから船名 "Japan" に乗り1872年3月26日(明治5年2月18日)横浜に着いた。

東京青山の官園が勤務地であったが、この官園は外国(主にアメリカ)から輸入した家畜や草木を一旦根付かせその後北海道へ移送する為の中継基地の役割を担っていた。 10万坪を超える広大な官園には、小麦や大麦、豆類などの雑穀やアスパラガス、人参、玉葱、馬鈴薯などの野菜、リンゴやサクランボ、ブドウ、梨、桃といった果樹がたくさん植えられた。ルイス・ベーマーは農作物を主体とした第一・第二官園(現在の青山学院大学の一帯)の主任として指導に当たっていたが、ベーマー着任の1年後に牛や馬、豚、羊など家畜の飼育を行う第三官園の主任としてアメリカらやってきたエドウィン・ダンと交友を深めた。
ケプロンが "government farm" と呼んだ官園は外国の農業技術を導入するための施設として、ルイス・ベーマー等の外国人指導者による技術者養成をはじめ、試験や実験、啓蒙や普及といった活動も行われていた。そこに学んだのは主に農業現術生徒と呼ばれる若者であった。彼らは農家の出身ではなく、つい数年前まで各藩で将来を嘱望されて文武に励んでいた若者達で、明治新政府によって全国から集められた。
例えば明治5年(1872年)第一期生として入園した中田常太郎(当時30歳)は、東北戊辰戦争に敗れて捕らえられ北海道に移送された後明治4年に余市に入植した旧会津藩の武士の一人であったが、彼の様に逆賊と呼ばれた無念な思いを断ち切り新政府の農業研修制度に応募する若者も多かった。 ベーマーはこうした現術生徒を指導しながら、アメリカから持ち込み一旦青山官園に仮植されたリンゴの苗木を札幌や七重村(現七飯町)の官園へ移送する作業に取り掛かった。

◆札幌へ転勤
実践的指導に優れていたベーマーは1876年(明治9年)札幌官園への移動を命じられ、エドウィン・ダンと共に同年5月22日品川から玄武丸に乗り出帆した。 同年7月には米国マサチューセッツ農科大学を一次休職したウイリアム・スミス・クラークが札幌農学校(北海道大学の前身)教頭に就任した。

【業績】

◆北海道開拓使

1876年(明治9年)9月国内で初の官営ビール工場である開拓使麦酒醸造所(後のサッポロビール)が札幌に開業した。開拓使はドイツで醸造技術を習得した中川清兵衛(1848−1916)を主任技師に迎えて開業したが、ビールの味の決め手となるホップの栽培をベーマーが実現しなければ叶わなかったことである。現在の札幌駅前から時計台の当たりまでの一帯は広大なホップ畑であった。 また開拓使は葡萄酒醸造所の開設も同時に行ったが、葡萄の品種選定や葡萄園作りはベーマーの主要な任務であった。

札幌官園に着任したベーマーは早速に本格的な洋風温室を設計し、1876年(明治9年)11月、ガラス張り・ボイラー付きの豪華な温室が完成した。その後温室は一般にも公開され多くの市民に親しまれたが1878年(明治11年)2月にクラークの希望を受け札幌農学校に移管され専ら学術研究に供される事となり、その後1886年(明治19年)には現在の北大植物面内に移築された。 優れた園芸家でもあるベーマーは、札幌で最初の公園となる偕楽園内に和洋折衷の庭園建設を指導しているが、これが現存する清華亭の前庭である。
ベーマーの功績の中でも最も高く評価されるのはリンゴの生育指導であったが、1875年(明治8年)から全道に配布された苗木も着実に成長し、1879年(明治12年)には余市や札幌などからリンゴの初なりの報告が相次いでなされた。当時のリンゴは「六十六号」や「二十四号」など番号で呼ばれていたが、この番号は東京から札幌に送る際に品種名の代わりに付けられた数字で、ベーマーによって作られた「西洋果樹種類簿」によって管理されていた。 ちなみに1879年(明治12年)余市で結実された俗称「四十九号」は後に「国光」と命名されているが、最初の生産者の金子安蔵は1874年(明治7年)現術生徒(当時24歳)になりベーマーやダンから直接指導を受けた旧会津藩出身者である。
1880年(明治13年)、翌年の明治天皇の札幌訪問に備えて宿舎となる豊平館の建設工事が現在の札幌テレビ塔周辺で始まったが、この豊平館の庭の設計もベーマーによるものである。この時この庭園工事を手伝った上島正(1838−1919)は、ベーマーの指導を受けて花菖蒲の人工交配に成功し「我邦に於ける花卉媒助の鼻祖」と称され、その技術を様々な花卉の採種に応用して巨利をえた。上島の庭園(東皐園)で作られた花菖蒲はその後アメリカに輸出される事になるが、1882年(明治15年)に開拓使廃止によって横浜に移り園芸種の輸出入業を営む事となるベーマーがそれを支えた事が容易に想像される。
こうして、野菜や花卉、果樹や穀類など多くの有用な作物を短期間で北海道に定着させ、その後の発展の基礎を築いたルイス・ベーマーの業績は賞賛されて余りあるものがある。

◆横浜ベーマー商会
1882年(明治15年)開拓使の廃止にともないベーマーは同年3月12日来道時と同じ玄武丸で函館を後にした。同年4月30日をもって開拓使との契約は満了したが、就任期間10年3ヶ月はお雇い外国人としては2番目に長いものであった。この間ベーマーが妻帯していたという記録は残されていない。同年4月27日、横浜のブラフ28番(番地)に転居届けを出したベーマーはここで輸出入園芸業のベーマー商会を設立した。
ベーマーは本格的温室を建設し日本産植物の輸出と並行して西洋花卉の輸入培養を行うとともに、日本人の鈴木卯兵衛を仕入主任(番頭)に雇い、百合根貿易に力を注いだ。アメリカ、カナダ、ドイツ、イギリスと次々に販路は拡大されベーマー商会は大いに潤った。当時生糸や茶など代表的な産品は外国商館を経なければ輸出できず自ずと日本側の利益は薄いものであったが、鈴木卯兵衛等は会社(後の横浜植木株式会社)を起こし、ベーマー商会の名義を活用してアメリカへの百合根輸出を始めた。 関税自主権のなかったこの時代に直貿易に近い形で日本側が厚い利益を取れたのは、日本贔屓で情義に厚いベーマーの存在が大きかった。
横浜に移り住んで12年、園芸商として成功を遂げたベーマーであったが、体調を崩しドイツで療養することとなり、2年前から共同経営者になっていたアルフレッド・ウンガーにベーマー商会を譲り、1894年10月13日英国船Ancona号で離日した。そして1896年7月29日、療養地ブラッケンブルクで53年の生涯を閉じた。


<転載、以上>

明治4年頃、東京府に置かれた宮園には、多くのアイヌが連れてこられ、働かさせていたようです。このことは、本サイトの少数先住民族の項目でもご紹介する予定です。この関連の研究文献「開拓使仮学校附属北海道土人教育所と開拓使官園へのア
イヌの強制就学に関する研究(廣瀬健一郎著)」に当時の宮園の地図があるので、以下にご紹介します。


【東京府内開拓使宮園の地図】



<この項、了>