【姉小路基綱の「卑懐集」に恋の歌として、詠まれた吾亦紅】


室町時代に詠まれた吾亦紅はあまり、多くないようです。
その数少ない一つで有名な歌は、姉小路基綱の家集『卑懐集』に収録された一首です。

【姉小路基綱とは】

<Wikipediaより、転載>

姉小路 基綱(あねがこうじ もとつな、嘉吉元年(1441年) - 永正元年4月23日(1504年6月5日))は、権中納言従二位。飛騨の戦国大名で飛騨国司。
姉小路昌家の子。飛騨の乱の後、古川城に入り古川姉小路(家)を継いだ。
当時姉小路家は3つに分裂し、他に小島家の小島勝言と向小島家の小島之綱という事実上3人の当主がいたが、古川家の基綱が飛騨国司を名乗った。戦国大名としてはやや力不足だったが和歌をよくし、度々宮中の歌会に参加した。そのためか京都では名が知られており、嫡男済継と共に今日の飛騨文学の祖となった。左近衛中将等を経て1480年正三位参議、後1504年に木曾義元を討ち従二位権中納言に叙されたが同年逝去(64歳)。

<転載以上>

また、和歌の世界では、飛鳥井雅親に歌を学び、将軍足利義政に重用されたようです。
寛正六年(1465)に勅撰集が企画された際には、二十代の若さで和歌所寄人に召されましたが、応仁の乱のため撰集は実現に至りませんでした。
文明十五年(1483)の足利義尚の和歌打聞にも公家方手伝衆を勤めます。三条西実隆に先輩歌人として親交したそうです。

歌集:『卑懐集』『卑懐集之外』『基綱卿集』

この歌集『卑懐集』に吾亦紅が登場する恋の歌が詠まれました。

詳細は、以下の和歌の解説をされている「やまとうた」にある解説を以下に転載してご紹介します。

<「やまとうた」より転載>「やまとうた」へは、こちらから。

迎不遂恋

袖の色も人はことなる吾亦紅われもかうかれゆく野べに猶やしをれむ
(卑懐集之外)


【通釈】袖の色も私とあの人では違っている――吾亦紅は、枯れてゆく秋の野辺でいっそう萎れてしまうだろうか。

【語釈】

◇迎不遂恋 迎へて遂げざる恋。家に恋人を迎えたけれども思いを遂げずに帰してしまった、という恋の設定。女の立場で詠んでいる。

◇人はことなる 異なる。人とは別である、私の袖の色の吾亦紅であるが…と次句へ続く。

◇吾亦紅(われもかう) 血涙に染まった己の袖の色を暗示するだけでなく、野に打ち捨てられた花に己自身を象徴させている。また、花の名は「我も紅」なのに「人はことなる」という言葉の上での矛盾が意識される。

◇かれゆく 「枯れゆく」に「離(か)れゆく」が掛かり、恋人の心が離れてゆくことを暗示。

【補記】吾亦紅を詠んだ稀有な歌であるが、きわめて婉曲な象徴的技法も珍しい。水無瀬御影堂御奉納五十首。


注:【水無瀬御影堂】:

水無瀬神宮は、もともと後鳥羽上皇造営の水無瀬離宮のあったところです。上皇は鎌倉幕府執権北条氏の専横を憤り、1221年5月倒幕の兵を挙げる(承久の乱)。しかし関東の大軍に敗れ、その結果、後鳥羽上皇は隠岐に、順徳天皇は佐渡に、土御門上皇は土佐(後に阿波)に遷御になり、ついには都に戻ることなくいずれも遠隔の地で崩御となりました。
後鳥羽上皇は崩御の14日前に朱肉の御手印を押した置文(遺言)を水無瀬離宮を管理していた水無瀬信成、親成父子に後生を弔うように書き残しました。上皇崩御の後、藤原信実を召して描かしめた上皇の御影を拝領し、離宮の地に御堂を建ててその菩提を弔ったのが水無瀬御影堂です。

この御影堂に奉納された歌の一首でした。

<転載、以上>
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和歌に表現された「吾亦紅」