結び目花壇から、刺繍花壇(パルテール)への移行は、植物学への関心の高まりと当時、流行したカントリー・ハウスでの室内装飾の主役だった「刺繍」が大きな役割を果たしたようです。

「森と庭園の英国史」の中のこの刺繍花壇への移行を説明する部分を以下にご紹介します。

<転載部分>

この結び目花壇が流行した時代は、貴族の館=カントリー・ハウスが盛んにつくられた時代でもあった。館につくられた出窓も、採光目的の他に窓の下に設けられた花壇をより身近なものとして眺めるという、鑑賞目的もあったにちがいない。

当時のカントリー・ハウスの室内装飾では、刺繍が主役をつとめていた。イギリスはヨーロッパ諸国の中でも伝統的に刺繍の盛んな国だった。
ヘンリー八世の最初の妃キャサリン・オブ・アラゴンは故国スペインからスペイン刺繍をイギリスに持ち込んだし、エリザベス一世の異母姉メアリ、そしてエリザベス女王自身も玄人はだしの刺繍愛好家だった。黒糸刺繍のドレスに身をくるんだ貴婦人の肖像画は、この時代特有のものだ。

当時はまた、装飾美術のモチーフとして庭の草や果実が人気を博し、教養ある人々の間では植物学への関心も高まっていた。
フランスで起きた新旧の宗教内乱(いわゆるユグノー戦争。1562〜98年)の結果。イギリスに亡命してきたユグノー(新教徒)たちの影響も大きかった。彼らはおしなべて園芸好きで、イギリス園芸界に新風を吹き込んだ。

イギリス最初の『植物図鑑』(1597年)を著したジョン・ジェラード(John Gerard、理髪師兼外科医、1545〜1612年)がいみじくも述べているように、「大地を植物で飾ることは、ドレスに刺繍をほどこすのと同じように、人間の労働の喜び」であった。こうした植物図鑑は、刺繍製作にも利用されるようになる。
植物模様とそれをモチーフにした装飾美術の一ジャンルとしての刺繍は、エリザベス朝において最盛期を迎え、十七世紀を通じて流行し続けた。
(中略)
庭園と刺繍は、相互に影響を及ぼし合いながら発展していったのである。

各種の花をふんだんに用いて刺繍のようにみせる大掛かりな「刺繍花壇(パルテール)」が流行するのは、十七世紀も後半になってからである。こうした刺繍花壇は、とくに絶対王政期のフランス庭園を特徴づけているもので、イギリスにはルイ十四世の宮廷から伝わったとされている。従来は、緑一色のモノトーンで構成されていた「結び目花壇」が色鮮やかなアラベスク模様の刺繍花壇に生まれ変わっていった過程は、そのままイギリスにおけるフランス文化の浸透を反映している。

<転載、以上>

大文字で書いた「ジョン・ジェラード」については、この時代の植物、園芸ブームを知る上で植物学者でもないという点と初期の植物の流行に果たした役割の大きさという点で別な章でご紹介します。

チューダー朝に始まった花壇の様式の段階的な移行の発端はこうしたことだったのでしょう。次章以降で、より詳細にこの過程を追いかけてみます。