第2回は、表千家の堀家長生庵主の堀家宗光氏の書かれた、「入門 宗匠に学ぶ はじめての茶花」
の序文にある堀家氏の茶花の考え方をご紹介します。
<同書より、転載>
序文にかえて
花を生けるということは、釜を掛けるということです。
お茶を始めて自ら釜を掛けるには相当の年月を必要とし、釜をかけるには道具を始め、実にたくさんの下準備が必要となります。では、初心者には花が生けられないのでしょうか?
しかし、難しく構える必要はないのです。部屋の片隅での一服の薄茶もお茶です。それはまさに「囲い」の原点で、そこには正式な茶事よりも、もっと自らの生活に密着したお茶があります。お茶に詳しい客を招く必要はありません。普通の友人が良いのです。来訪者があれば、いつでも一服のお茶を飲んでいただく用意を整えておく。これがお茶のある生活です。毎日、何なりとも釜を掛ける、これがほんとうのお茶なのです。毎日とはいかないまでも、週末だけでも良いのです。朝、庭あるいは玄関先だけでも掃き清めて水をまきます。そして、庭の花を切り、生けます。何度か繰り返すと、時期にあった花がなんであるか、花入には何がふさわしいか、自然とわかってくるものなのです。(略)
<転載、以上>
簡単にいえば、とにかくできるだけ多く、人を招いて、回数おおく、お茶を入れ(釜を掛け)て、庭の花を切って、生けることを経験するなかで自然と学べるものということです。
要は客をもてなすものとしてのお茶の経験と「庭の花」を生ける経験を積むということなのです。重要なのは「もてなす機会づくり」と「庭で(自ら)花を育てる」という二つが基本なのだという「茶花の考え方」を延べられています。
<この項、続く>