トップ  >  花の意匠、装飾(工芸、服飾へのアプローチ)  >  風土文化:日本  >  花柄の歴史  >  「花鳥」の意匠:その2 花柄と鳥柄の変遷と関係
「花鳥」というと「花」と「鳥」だが、この二つのモチーフの関係はどのようになっているのでしょう。

同じく、松岡正剛氏の「日本数寄」では、以下のように説明しています。

<転載、部分>

ところで花鳥模様というと、多くの人々が花柄のベースに鳥をあしらった図柄だと思うらしい。が、私の知るかぎり、花柄と花鳥とは、全く別の系譜に属していたはずだ。
もともと花柄は、東アジア寄りの起源をもっていた。ギリシャやローマには、花柄だけを描くという発想はなかった。仮に背景に花々が描かれていても、前景には必ず人間がいた。ロータス・パターンも少なくないが、たいていは柱頭や柱尾、あるいは壁の装飾となってきた。ロータスとは蓮のこと、蓮華のことである。

これに対してインドや中国では、はやくから草木虫魚のみが描かれていて、その草花がいっぱしに自立して、やがては仏教デザインに有名な蓮弁模様や宝相華模様を生んでいく。平等院や中尊寺金色堂はそうした草木の化身がおびただしい模様となって埋め尽くされている。それならイスラム模様にも緻密な草花がびっしりつまっているというかもしれないが、それはどちらかというとカリグラフィック・パターンからの発展なのである。

花鳥の起源は、「花の実をついばむ鳥」というコンセプトに基づいている。
図案用語でしばしば「花喰い鳥」とか「咋鳥(さくちょう)模様」といわれる。これはおそらく西アジアあたりを発祥とする。葡萄唐草や忍冬(にんどう)唐草などの名で知られる、いわゆるパルメットの実を鳥がくわえて飛んでいる図柄が吉祥文としてよろこばれた。
鳥が予知のシンボルであるのは洋の東西を問わないが、その鳥と花の実をしっかり結びつけたのはおそらく遊牧民族の独創だろう。
花の実をくわえた鳥が草原の場所を告げているという「ディレクション(方向)信仰」の賜物だった。

その花喰い鳥がシルクロードを渡ってくるうちにしだいに変容をとけ、ついに日本に上陸したときには、松の実を両側から鶴がついばむ「松喰鳥」あるいは「松喰鶴」になった。
農耕型の日本人は、遊牧民的なディレクションを無視した「型紙のような咋鳥」をデザインしてしまったのである。

<転載、以上>

ここでも文化伝来の過程で、風土による変容が指摘されています。鳥も花も日本の風土で変容を遂げていったことは、よりその模様の伝来を検証していく必要があるでしょう。それは、別な章に譲ります。
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