江戸時代の武蔵野市周辺の開拓は、どのように進んだかを武蔵野市の百年史に関する市役所のサイトから、以下にご紹介します。
<むさしの百年物語(市役所公式サイト)より、転載>
開発される武蔵野台地吉祥寺の八幡宮や井の頭池の付近から、鎌倉時代末期以降に作られた板碑(供養の石碑)が出土されており、この時代にも人々が住んでいたことが推測されます。
この地域に大きな変化が生じるのは、天正18年(1590年)に徳川家康が江戸に入城してからです。その後、家康は幕府を江戸に置き、政治・経済、交通の中心地としてさまざまな整備を進め、江戸は人口百万を擁する大都市に成長します。本市の周辺は、
幕府御用の茅を刈る茅場(御札茅場千町野(注))に指定されたり、
将軍家や大名の鷹狩り場になっていました。そして、承応3年(1654年)に玉川上水が開通し、武蔵野の原野は農地として開発が進められたのです。
(注)御札茅場千町野…江戸時代はじめ、武蔵野周辺の村々は、武蔵野に生える茅を、肥料や屋根材に使用しました。幕府はこれらの村々から野銭を徴収し、野銭札を交付していました。>本サイトの花研究にも「茅、チガヤ」の品種詳細を掲載しています。
こちらからご覧ください。
市域の原型が形づくられる万治2年(1659年)には、
水道橋(現在の文京区付近)の吉祥寺門前町から、寛文2年(1662年)には西久保城山町(現在の港区)から住民が移住して、五日市街道沿いに短冊状に与えられた原野を開発し始めます。それぞれの集落は、それまで住んでいた土地の名前を付けて
吉祥寺村、西窪村となりました。
寛文12年(1672年)ごろ、練馬の農民が中心となって開発した土地は、関村(現在の練馬区関町)の前にあるという意味から関前村と名付けられました。
境村は、出雲松江(現在の島根県)の城主・松平出羽守の御用屋敷の跡が開拓された地域(境南町)、保谷村の農民たちが開いた地域(武蔵境駅北側)、多摩郡西部の山間部から移住してきた人々によって開かれた地域(同西部)などから成り立ち、その地割りは不整形でした。
武蔵野市域には
田はなく、畑地ばかりで、春には特有の「赤っ風」が吹くので、屋敷の周りにケヤキなどを植えて風よけにしていました。この風景は、最近まで見られました。
19世紀になると、農家と兼業して菓子屋や煙草屋などの商売をする者、大工や屋根屋などの職人も出てきました。4カ村のなかでは、吉祥寺村の戸数が最も多く、次いで境村、西窪村と関前村はあまり戸数が多くありませんでした。
<転載、以上>
上記の水道橋の吉祥寺門前町からの移住については、より詳しい説明が、Wikipediaの「吉祥寺>歴史」にあるので、それを以下に転載して、紹介します。<Wikipediaより、転載>
吉祥寺・歴史明暦の大火によって、江戸本郷元町(現:文京区本郷一丁目、水道橋駅付近)に存在した諏訪山吉祥寺の門前町が焼失した際、幕府は都市計画に基づき同地を大名屋敷として再建することにした。
そのため、吉祥寺門前の住人を始めとする居住地・農地を大幅に失った者達に対し、「札野」「牟礼野」と呼ばれた幕府御用の萱場を代地とし、5年期限で扶持米を与え家屋の建築費用も貸与するという条件で希望者を募った。吉祥寺の浪士の佐藤定右衛門と宮崎甚右衛門が土着の百姓・松井十郎左衛門と協力してこれに応じ、現在の武蔵野市東部を開墾して住人達を移住させた。折しも玉川上水の開通に伴い、かつては水利が悪く無人だった武蔵野台地が新田開発によって広大な農地へと変わっていく過程で、五日市街道(現在の東京都道7号杉並あきる野線)沿いに整然と区画された短冊状の土地が形成された。しかし土壌はさほど良いものではなく、農地はすべて畑地であり水田はなかった。吉祥寺に愛着を持っていた住人たちにより、新田は吉祥寺村と名付けられた。
<転載、以上>
江戸時代にカヤ場、原野であったこの地域の移住・開拓は、五日市街道の周囲から始まり、玉川上水が引かれ、水が供給されるようになったことで、畑地として、新田の開拓が進んだようです。