東京の公園の歴史は明治6年(1873)の太政官布達に始まりますが、上野公園など選定された5公園は、江戸からの緑の遺産だった寺社地、行楽地などを継承したものでした。 その後、近代的都市整備の観点から公園の必要性が問われ、明治22年(1889)市6区改正に伴い49公園、面積約330haの公園計画が誕生します。市区改正は、道路・河川・公園など都市施設を対象としており、日本で最初の都市計画といえるでしょう。
その後、多摩地域が東京府に移管され、現在の東京都の姿になったのが、明治26年です。当然市区改正に伴い、前出の公園計画も修正されました。当時の市の財政から、22公園、面積約220haに縮小されたそうですが、明治36年(1903)には、その第一の成果ともえいる近代洋風公園の先駆けである日比谷公園が開園しています。

国木田独歩が「武蔵野」を刊行したのが、明治34年。郊外の自然に憧憬を感じる人々が増えてきていたことをこの出版は物語っています。

明治31年に神田上水がその使命を終えたこともあって、その後、明治43年には、明治政府に「郊外型公園」づくりへの機運が高まりました。
古くからの名所でもあり、豊かな自然とともに吉祥寺の駅からも近いという立地が井の頭池周辺に「郊外型公園」をということになったのも、こうした機運と無縁ではなかったようです。

こうした動きに大きな影響を与えたのが「渋沢栄一」でした。
渋沢栄一は、当時の財界人として、多くの業績を残していますが、その一つに社会的弱者救済のための福祉施設「東京市養育院」があります。渋沢はこの施設の院長を永年務めました。その東京市養育院の感化部という非行少年の感化を推進する部門の施設として、「井の頭学校」をこの地に明治38年に設けたのです。
当時、東京市にいた不良少年や非行少年を収容し、井の頭の自然豊かな土地で農作業などを取り入れた更生教育を受けさせるための施設でした。その学校の用地だけでなく、御殿山全域にわたる土地を皇室(当時は、皇室の御料地でした)から、借受けて、御殿山の林を切り開いて造成し、この施設が誕生したのです。


【渋沢栄一関連資料について】

◆近代デジタルライブラリーにある「東京市養育院」の沿革資料は、
こちらから、ご覧ください。

◆井の頭学校の設立について

実際は、36年に土地を拝領し、2年をかけて、建設し、38年の10月に開所式を行ったようです。現在、渋沢栄一の業績や資料を管理している「公益財団法人 渋沢栄一記念財団」の公式サイトの情報を、以下に転載しておきます。渋沢栄一については、東京市養育院については、この公式サイトの資料を参照すると良いでしょう。

<渋沢栄一の業績沿革より、転載>

感化部開始以来一ヶ年余の経験により、感化部の移転議せられ、明治三十六年一月府下北多摩郡武蔵野村字吉祥寺井之頭御殿山御料地を拝借し、同三十八年三月新築成り、九月二十二日移転す。東京市養育院感化部井之頭学校と改称し、是日、開校式を行ふ。栄一之に出席して一場の演説を為す。

<転載、以上>

◆公益財団法人 渋沢栄一記念財団の公式サイトは、
こちらから。


明治後期に東京市の公園建設に指導的な役割を担ったのは、「本多静六」「長岡安平」「井上清」という人々でしたが、これに上記の渋沢栄一もこうした公園計画に加わり、大正6年の井の頭恩寵公園開園が実現したようです。渋沢栄一自体が東京市参与であり、当時の東京市長だった阪谷芳郎は、渋沢の娘婿だったようです。宮内庁への働きかけはもちろん、開園に向けての公園の造成には、周囲の村々からの協力はもちろん、井の頭学校の生徒が労働力を提供したといいます。
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