上位の世界としてのカテゴリーで、概念として参照したWikipediaの「フラワーデザイン」の項目にある、「フラワーデザイナー」一覧で最も古い、明治の聡明期のフラワーデザイナーとして取り上げられている永島四郎という人物について、調べてみましょう。


<Wikipediaより、転載>

永島四郎

永島四郎 (ながしましろう、出生年不明-1963)長野県長野市(松代)出身のフラワーデザイナー。華道家。

日本のフラワーデザイン(花卉装飾)の歴史に於ける最古の先駆者。明治、大正、昭和初期の戦中・戦後の時代に、三井財閥が世界各国から草花を集めて造った三井農園(戸越農園)、現在の第一園芸に務めた永島は、外国人接待所として建築された三井家の別邸迎賓館などを飾る花卉装飾の為、それまでの「いけばな」の西洋化を急務として求められ、1922年、日本人として初めてアメリカにてフラワーデザインを学んでくるよう命じられた。帰国後の永島の作風は、西洋で得たものに日本人の持つ「わびさび」の心を併せ持った独特のものとなり、日本文化の西洋化の一端を担うこととなった。

1936年には東京銀座に「婦人公論花の店」という名の生花店を開業(戦争により1944年に閉店)。
「花卉装飾には冨の裏づけが必要である」という名言を残した。 弟子に山本晃、等がいる。 また、主な著書に「花のデザイン」「新しい日本の花卉装飾」などがある。
1963年(昭和38年)死去。

【著書】

「花のデザイン」(1957年) 新樹社
「新しい日本の花卉装飾」(1963年) 新樹社
など

<転載、以上>

彼が最も古い西洋のフラワーデザインを日本に紹介した人物だとしています。

先ずは、永島氏の1920年代にアメリカで学んだフラワーデザインを知る必要がありそうです。永島氏について、もう少し調べてみましょう。氏の著作も調べてみましょう。

三井農園がその前身である三井不動産系の花屋「第一園芸」とは以下のような会社です。永島氏が関わっていたと考えられる期間の沿革と一緒に以下にご紹介します。


第一園芸株式会社(だいいちえんげい)は、戸越にあった三井別邸の農園に端を発する三井不動産系の園芸会社。

【沿革】
1898年(明治31年) 戸越(品川区)の三井別邸内に三井農園誕生
1914年(大正3年) 三井合名会社の山林課、不動産課により三井農園を運営
1934年(昭和9年) 玉川用賀町に移転(現世田谷区用賀)
1941年(昭和16年)三井総元方によって三井不動産株式会社が設立され、戸越農園は三井不動産株式会社の所管となる

<第二次大戦>

1951年(昭和26年) 三井戸越農園の販売部門と富士園芸株式会社が合併し、資本金500万円にて、東京渋谷に第一園芸株式会社設立。
1964年(昭和39年) 本社を用賀に移転
1973年(昭和48年) 富士小山農場開設(静岡県駿東郡小山町)
1974年(昭和49年) 青山フラワービル完成(青山本店)
1996年(平成8年) 本社を渋谷に移転(青山フラワービル)


<この項目、続く>