序章の内容を読む

「はじめに」という序章でこの章の著者である小笠原園芸文化協会会長(本書籍の編集委員長)は、17〜19世紀へと続く日本の花き園芸を以下のようにまとめられています。
この園芸史自体は、タイトルにもあるように20世紀の園芸産業史をまとめた資料のため、(明治は33年から、20世紀に入ります)、第一章の明治初年から、30年頃までの園芸史は、あくまでプロローグとして、概要のみが掲載されているようです。


<第一章 明治・大正期の花き園芸 より転載>

1 はじめに

17〜19世紀、我が国の花き園芸は、趣味の時代としてさまざまな園芸植物が品種改良され、栽培技術が開発された。また、社寺、武家屋敷、商家の坪庭などの庭園用樹木や草花の需要を満たすための生産、築庭、メンテナンスなどこれらを担当する農園、職人共に植木屋と称して、都市部郊外に近いところに多数存在した。

一方、外来植物の渡来は、、鎖国制度下であり長崎出島、琉球など限られた窓口からのみの導入となり、その数は多くなかった。もっとも欧州からの苗木や球根類の輸送には、大西洋、インド洋、太平洋と長い航路、さらに熱帯圏の通過によるダメージは大きく、不可能に近かったことであろう。

幕末になり、開国によって、アメリカ西海岸からの導入により輸送時間の短縮と熱帯圏の通過が避けられた。
結果、明治初期には、急速に外来植物が導入された。最も顕著な植物としてバラをあげることができよう。従って私は、「明治の文明開化はバラの花から」と思っている。


明治新政府は、農業にも力を注ぎ、明治4年(1871)、東京青山に開拓使宮園(後農事試験場と改称)を設けて欧米の農園芸の技術、器具、種苗などの導入と試験が行われた。

また、明治7年(1874)内務省勧業寮は、東京三田に内藤新宿勧業寮附属試験場を設け、三田培養地と名を変えた後、明治10年(1877)三田育種場に名称を変え、優れた種子、種苗の普及を図った。三田育種場は、明治19年(1886)に民間払い下げとなり、東京三田育種場として我が国最初の木版多色刷の絵袋入種子を販売、在来種、導入種ともに普及啓蒙に努めた。一袋の販売価格は一銭、特殊品種は二銭であった。

このほか、鉄道の敷設、郵便の発達により種苗の陸路輸送の利便性が高まり、新種苗の普及に大きな力となった。
メディアとして「日本園芸会雑誌」が明治22年(1889)に発刊開始された。翌年新しく施行された商法に基づき、有限会社横浜植木商会が設立され、翌翌年横浜植木株式会社となるなど20世紀を迎える諸条件が備わったと言えよう。


<転載、以上>

この後、本章は、「通信販売による種苗の普及」さらには、「生産と流通」へと話を進めるが、ここまでの20世紀にいたる前までの序章の内容を解析してみようと思います。

まず、政府による青山(開拓使)宮園、札幌宮園や農事試験場、三田育種場については、本サイトのにもその詳しい情報(こちらから)があるので、詳細は、そちらに譲るとして、幕末の「社寺、武家屋敷、商家の坪庭などの庭園用樹木や草花の需要を満たすものとしての植木屋の活躍」は、どのように明治時代に変化したかを確認してみます。

三田育種場が以前の薩摩藩邸跡地に設立された点、その設立に貢献し、フランスから苗なども持ち込んだ前田正名氏がその後、在野し、山梨でブドウ栽培に貢献した事など、そうした育種研究が地域に広がっていったり、地域での同様の殖産政策と連携していった経緯など、このサイトの園芸史の目的である地域・風土知の形成を視野には、まだ十分にまとめられていません。

唯一このサイトでは、幕末から明治への江戸の園芸拠点の「染井」の周辺地域(埼玉、東京郊外、神奈川県横浜など)への変遷を調べた資料を見ることはできるようにしていきたいと考えています。

上記による明治初年からの開国による欧米からの輸入については、開拓宮園や札幌で活躍した政府お雇いの外国人園芸家の情報は、こちらで読むことはできますが、その外国人が開拓使での仕事を終え、横浜で園芸会社を営むようになるのは、明治も遅くなってからのことです。その事情については、でもご覧いただけますが、それ以外の外国への開港した地域での花きの取引に関する情報は残念ながら、入手できていません。

小笠原氏の指摘される輸入花きとしての「バラ」は、政府の農業試験場での品目には見当たらず、この書籍の分野編の第一章「国・地方自治体の花き振興」の第3節「花き栽培技術普及における民間研修の貢献」の1バラの章(86P)でその栽培技術の導入の最初となる営利温室バラ栽培は、大正6年、アメリカより帰国した猿棒忠恕が大阪府瓢箪山付近で開始され、関東では、大正7年頃に大井町で烏丸光大伯爵、中野で伊藤貞作が開始した。という情報以前のものが見当たりません。ただ、烏丸伯爵の渡米中の苦闘について記載した中野孝夫氏の「明治薔薇年表」(2005年)が国会図書館に所蔵されているようなので、調べたいと思っています。
前出の小笠原氏の章末にも参考・参照文献が示されていないために詳細は不明です。文献を確認でき次第、本サイトの明治の園芸項目に加えていきたいと思います。

ただ、園芸雑誌として明治22年に刊行された「日本園芸会雑誌」は、国会図書館にマイクロフィルムとして所蔵されていることは判明したので、この文献についても後でその内容を調査し、報告できると思います。

さらに、明治初年からの欧米からの花卉の輸入は種苗、種子など当時の開港地(箱館、横浜、神戸、大阪・川口、長崎、初期には下田)の文献を調べる必要がありそうです。特に居留地のあった横浜、築地、神戸、川口、長崎は可能性が高いと思われますので各地の郷土史文献などを再度調べてみたいと思います。


<この項、作成中>
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令和元年12月発行の「日本花き園芸産業史・20世紀」を読んで