出版の経緯とその過程、成果を概観する
この産業史の企画は、どのように生まれ、どのように進み、どのような成果を生んだのか。そうした背景への理解をまず最初にした上でないとこの新しい産業史という試みは見えてこないような気がします。
この入り口となる章は、こうした背景分析をしてみたいと思います。
1)出版の企画、発端を調べる
この産業史には刊行のいきさつを述べる「刊行会」の思い出や編集委員長である小笠原園芸文化協会会長による編集後記などがあり、その内容から、大体のいきさつは知ることができます。
産業史としての位置づけは、
「産業史は「昭和農業技術発達史」や「平成農業技術史」のような国の正史、国史ではなく、民間がまとめた自分たちの歴史書で、構想から25年という年月を経て、実現したものです。
その出版経費は、賛同した花産業界からの協賛金のようです。先に出版された「平成農業技術史」のように、だれでもが買うことができる商業的な刊行物ではなく、協賛金を出していただいた個人や企業に贈り、公的な機関、団体へ寄贈される出版物という位置づけのようです。そのため、書店には並ばない規模での出版ということのようです。
この産業史の巻末にある刊行会幹事会の平成30年9月に開催された座談会「村田俊次代表幹事および谷口勇幹事長の花き園芸産業史に対する思いを語る」という章(734P)にそのいきさつを読むことができます。
ネット上には、編集に参加された方々の情報もブログなどの形で情報配信されています。
こちらブログ「宇田明のまだまだいいます」に紹介された宇田明さんの文章も参考にしてみてください。以下の内容と重なる刊行の経緯を記述されています。
宇田明さんは、編集委員でもあり、嘗ては、兵庫県農林水産技術総合センターに勤務されていたようです。この本では、分野編の「2 カーネーション」と「第3章 施設・資機材の品質所持剤」を執筆されています。
以下に上記の座談会での内容から、その位置づけをご紹介しましょう。そのきっかけは、西川勲氏(九州日観植物株式会社代表取締役会長)によると以下のように、だったようです。
<産業史の刊行会座談会より、転載>
平成6年11月9日に、東京園芸市場協同組合の皆様が、箱根・湯本の旅館で村田俊次さん(砧花き園芸市場)の米寿を祝う会を行うことになり、私も参加させていただいた。
その際、新宿から箱根へ向かう小田急のロマンスカーの中で、村田さんが『鉢ものの歴史をなにか残しておくことが必要ではないか』と提案され、これに参加者の方々も賛同されたことが産業史刊行のきっかけでありました。その中で谷口さんに事務局になってもらい有志でつくることになった。
<転載、以上>
その後、事務局となった米山由男(有限会社ヨネヤマ・プランテイション代表取締役)さんによる、
「当初、村田さんが作りたいと考えていた本は、例えば、クリスマスローズ等を長年やっている趣味家や愛好家等数名に書いてもらうつもりであったが、谷口さんが、作るならばきちんとした花き園芸産業史にしたらどうかと言っていた。」という意見や、
池田正弘(株式会社フラワーオークションジャパン相談役)さんの
「さらに、花の業界団体に広く呼びかけるため、正式に村田代表幹事、谷口幹事長をはじめとする刊行会を組織して、本格的なとり組みが始まった。」
「村田さんの話を聞くと、若いころは生産者として、パンジー、ダリヤ等をリヤカーで出荷・販売する等大変苦労した経験があり、これらのことを記録として残したいとの思いもあったのではないか。
10年をかけて花き園芸業界の百年にわたる様々なデータを収集・記録できたことは大きな成果である。
また、編集長をお願いした小笠原さんは、明治初期から横浜植木がテッポウユリ球根の輸出を行っていたこともあり、花き園芸sン号の百年の歴史を取りまとめるべきとの意見であった。」
という発言から、愛好家の書いた鉢物などの歴史を記述した資料から。正式な20世紀という百年の花き産業史づくりへと発展していったことを見て取ることができます。
その結果は、この資料の目次や巻頭の平成27年に開催された刊行記念の刊行会座談会に見て取ることができます。
その中で小笠原氏が7という「花の効用・花の文化について」という項目が語られています。この内容が花文化と産業をつなぐものかもしれないという気がします。以下に転載して、ご紹介します。
<記念座談会・花の効用・花の文化についてより転載>
花の効用については、私たちは未だ見出していない。そのことについては、本草学に価値がひそんでいるのではないかと思う。
本草学の中では、飲んで効く薬は下品(げぼん)である。中品(ちゅうぼん)とは、食物である。上品(じょうぼん)が何かと言えば、見続けるとか、吸い続けることによって人間の心が爽やかになり、最後は仙人となる。仙人即ち不老長寿の世界に入るというわけである。そういう考え方でいくろ、下品(げぼん)を薬草つまり薬に置き換えてみると、野菜は中品(ちゅうぼん)であるかもしれない。上品(じょうぼん)に当たるものが花ではないか。花の色、香りは、人の心を爽やかにする。現代風にいうと、ペニシリンは、下品(げぼん)であって、今はやりのサプリメントは中品(ちゅうぼん)に当たる。
これをどのように証明するかわからないが、500〜600年前の中国の本草学にそういう考え方が成り立っている。人間は不老長寿を追い求めている。つまり上品(じょうぼん)が我々の身近にある花であるとすれば、これからの研究の中に取り入れていただけたら良い。
<転載、以上>
残念ながら、この小笠原会長の素晴らしい文化視点での考え方は、十分にはこの資料には展開できなかったようです。
この会長の想いを受け、このサイトは、園芸文化として、その花の文化としての側面を明らかにし、その文化を支えるものとして、花き産業、さらにはその周囲を形作る「庭、景観や生活の場を形成するもの」としての植木とその園芸という範囲のさらに大きな産業分野をも視野に中尾佐助さんの「植物民俗学」ななどの業績と連携させて、人の暮らしと花、植物との関係を取り上げていきたいと考えています。
このカテゴリーでは、その一部としての産業界の方々のまとめた本資料を章ごとに段階的に読み、その成果を上記の考え方でさらに展開させていくための研究について、検討し、展開していく予定です。
<この項、了>
この産業史の企画は、どのように生まれ、どのように進み、どのような成果を生んだのか。そうした背景への理解をまず最初にした上でないとこの新しい産業史という試みは見えてこないような気がします。
この入り口となる章は、こうした背景分析をしてみたいと思います。
1)出版の企画、発端を調べる
この産業史には刊行のいきさつを述べる「刊行会」の思い出や編集委員長である小笠原園芸文化協会会長による編集後記などがあり、その内容から、大体のいきさつは知ることができます。
産業史としての位置づけは、
「産業史は「昭和農業技術発達史」や「平成農業技術史」のような国の正史、国史ではなく、民間がまとめた自分たちの歴史書で、構想から25年という年月を経て、実現したものです。
その出版経費は、賛同した花産業界からの協賛金のようです。先に出版された「平成農業技術史」のように、だれでもが買うことができる商業的な刊行物ではなく、協賛金を出していただいた個人や企業に贈り、公的な機関、団体へ寄贈される出版物という位置づけのようです。そのため、書店には並ばない規模での出版ということのようです。
この産業史の巻末にある刊行会幹事会の平成30年9月に開催された座談会「村田俊次代表幹事および谷口勇幹事長の花き園芸産業史に対する思いを語る」という章(734P)にそのいきさつを読むことができます。
ネット上には、編集に参加された方々の情報もブログなどの形で情報配信されています。
こちらブログ「宇田明のまだまだいいます」に紹介された宇田明さんの文章も参考にしてみてください。以下の内容と重なる刊行の経緯を記述されています。
宇田明さんは、編集委員でもあり、嘗ては、兵庫県農林水産技術総合センターに勤務されていたようです。この本では、分野編の「2 カーネーション」と「第3章 施設・資機材の品質所持剤」を執筆されています。
以下に上記の座談会での内容から、その位置づけをご紹介しましょう。そのきっかけは、西川勲氏(九州日観植物株式会社代表取締役会長)によると以下のように、だったようです。
<産業史の刊行会座談会より、転載>
平成6年11月9日に、東京園芸市場協同組合の皆様が、箱根・湯本の旅館で村田俊次さん(砧花き園芸市場)の米寿を祝う会を行うことになり、私も参加させていただいた。
その際、新宿から箱根へ向かう小田急のロマンスカーの中で、村田さんが『鉢ものの歴史をなにか残しておくことが必要ではないか』と提案され、これに参加者の方々も賛同されたことが産業史刊行のきっかけでありました。その中で谷口さんに事務局になってもらい有志でつくることになった。
<転載、以上>
その後、事務局となった米山由男(有限会社ヨネヤマ・プランテイション代表取締役)さんによる、
「当初、村田さんが作りたいと考えていた本は、例えば、クリスマスローズ等を長年やっている趣味家や愛好家等数名に書いてもらうつもりであったが、谷口さんが、作るならばきちんとした花き園芸産業史にしたらどうかと言っていた。」という意見や、
池田正弘(株式会社フラワーオークションジャパン相談役)さんの
「さらに、花の業界団体に広く呼びかけるため、正式に村田代表幹事、谷口幹事長をはじめとする刊行会を組織して、本格的なとり組みが始まった。」
「村田さんの話を聞くと、若いころは生産者として、パンジー、ダリヤ等をリヤカーで出荷・販売する等大変苦労した経験があり、これらのことを記録として残したいとの思いもあったのではないか。
10年をかけて花き園芸業界の百年にわたる様々なデータを収集・記録できたことは大きな成果である。
また、編集長をお願いした小笠原さんは、明治初期から横浜植木がテッポウユリ球根の輸出を行っていたこともあり、花き園芸sン号の百年の歴史を取りまとめるべきとの意見であった。」
という発言から、愛好家の書いた鉢物などの歴史を記述した資料から。正式な20世紀という百年の花き産業史づくりへと発展していったことを見て取ることができます。
その結果は、この資料の目次や巻頭の平成27年に開催された刊行記念の刊行会座談会に見て取ることができます。
その中で小笠原氏が7という「花の効用・花の文化について」という項目が語られています。この内容が花文化と産業をつなぐものかもしれないという気がします。以下に転載して、ご紹介します。
<記念座談会・花の効用・花の文化についてより転載>
花の効用については、私たちは未だ見出していない。そのことについては、本草学に価値がひそんでいるのではないかと思う。
本草学の中では、飲んで効く薬は下品(げぼん)である。中品(ちゅうぼん)とは、食物である。上品(じょうぼん)が何かと言えば、見続けるとか、吸い続けることによって人間の心が爽やかになり、最後は仙人となる。仙人即ち不老長寿の世界に入るというわけである。そういう考え方でいくろ、下品(げぼん)を薬草つまり薬に置き換えてみると、野菜は中品(ちゅうぼん)であるかもしれない。上品(じょうぼん)に当たるものが花ではないか。花の色、香りは、人の心を爽やかにする。現代風にいうと、ペニシリンは、下品(げぼん)であって、今はやりのサプリメントは中品(ちゅうぼん)に当たる。
これをどのように証明するかわからないが、500〜600年前の中国の本草学にそういう考え方が成り立っている。人間は不老長寿を追い求めている。つまり上品(じょうぼん)が我々の身近にある花であるとすれば、これからの研究の中に取り入れていただけたら良い。
<転載、以上>
残念ながら、この小笠原会長の素晴らしい文化視点での考え方は、十分にはこの資料には展開できなかったようです。
この会長の想いを受け、このサイトは、園芸文化として、その花の文化としての側面を明らかにし、その文化を支えるものとして、花き産業、さらにはその周囲を形作る「庭、景観や生活の場を形成するもの」としての植木とその園芸という範囲のさらに大きな産業分野をも視野に中尾佐助さんの「植物民俗学」ななどの業績と連携させて、人の暮らしと花、植物との関係を取り上げていきたいと考えています。
このカテゴリーでは、その一部としての産業界の方々のまとめた本資料を章ごとに段階的に読み、その成果を上記の考え方でさらに展開させていくための研究について、検討し、展開していく予定です。
<この項、了>
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令和元年12月発行の「日本花き園芸産業史・20世紀」を読んで |
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