江戸後期、「ナデシコ、撫子、瞿麦」が園芸として流行したことを伝える図譜の発行や花合興行の瞿麦番付が今に伝わっています。この章では、そうした文献を元にナデシコの流行とその背景を調べていきます。
その第一弾は、「瞿麦草譜」です。
この文献は、
6名が提供(出品)した20点の撫子に、16名の狂歌師が20首の狂歌を付したもので、狂歌と撫子の絵がまとめられたもので、江戸末期(天保〜安政年間)の撫子の花合せ、その興行などと関連したものと考えられます。
実際の文献資料は、都立中央図書館の加賀文庫(4097)にあります。
以下、この狂歌と絵図を解析していきたいと思います。
先ずは、この草譜とは、どんなものだったのかを見ていこうと思います。
【園芸植物の歌集とは?:「園芸朝顔」の流行と狂歌の関連から「園芸撫子」の歌集を捉える視点】
初めに、十九世紀の江戸園芸を研究している平野恵氏の著作「十九世紀日本の園芸文化(思文閣出版)」でこの瞿麦草譜に朝顔愛好家とその流行を支えた狂歌連が登場することを指摘していることをご紹介しましょう。
平野氏は、第二章「連」から植木屋へ、第三節 園芸植物と狂歌
で、
<以下、転載>
前節までは、朝顔のみを対象として狂歌との相似性を指摘してきたが、ほかの園芸植物のうち、撫子・斑入り植物・桜・菊・福寿草の五種類の植物を以下に紹介し、それぞれと狂歌の関連性を説いていく。
<転載、以上>
として、撫子を取り上げ、その文献として、この「瞿麦草譜」を初めに、朝顔愛好家と撫子園芸提供者が重複している点、さらには絵師や歌を読んでいる多くの狂歌師が南畝関連の狂歌連参加していることを指摘し、こうした狂歌師と撫子の園芸愛好家(朝顔愛好家でもあった)が共同で制作したことを明らかにしています。
この著作で朝顔愛好家でもあり、撫子提供者として、紹介されているのは、旗本・鍋島直孝(杏葉館)
と朧月庵(ろうげつあん)の二人です。もちろん、この草譜での撫子提供者は、六名ですかが、この二人の他に四名の提供者がいました。
また、この草譜の成立時期を杏葉館の活躍した時期とそう離れた時期ではないだろうとして、嘉永・安政年間と分析しています。花合わせなどの流行として、朝顔と狂歌と同様の方法で撫子が扱われたとしています。さらに、「撫子培養手引草」や「瞿麦変草変化」などの文献から、
<以下、転載>
撫子の流行期は、天保年間と考えられ、これにより、「瞿麦草譜」も同年代の成立と推定でき、弘化・嘉永・安政年間に流行した朝顔に先行して流行したと推定できる。
<転載、以上>
とその撫子園芸の流行を天保年間と朝顔に先んじて流行したと推定されています。
次の章では、この草譜への六名の撫子提供者はどのような人々なのかとその提供された撫子の品種を見ていきます。
<この章、続く>