二人目は、朧月庵です。
前出の平野氏の著作によれば、
<以下、転載>
狂歌も詠み撫子も出品するという一人二役を演じ、天保年間刊「繍像百人狂歌弄花集」に「朧月庵二泉(ろうげつあんじせん)」とある人物であろう。彼はまた、「瞿麦形状品」という撫子培養書の著者でもある。
<転載、以上>
ということです。また、天保9年に刊行された撫子・瞿麦の番付表「爲御覧瞿麦変草変花」にも朧月庵は、もっとも多く、編纂した杏葉館よりも多くの撫子を出品した人物として掲載されています。
朧月庵とはどんな人物だったのでしょう?
朧月庵は、条野伝平という説があります。
条野伝平は、山々亭有人、条野採菊散人とも呼ばれた戯作者であり、東京日日新聞を創刊した人物(天保3年〜明治35年)です。この草譜が天保年間の刊行、さらに「瞿麦形状品」の発行も天保11年とわかっていますので、条野伝平でないことはあきらかです。朧月庵という号も多くの人が使っているようです。例えば、裏千家の4代仙叟宗室(1622-1697、江戸前期)の号も朧月庵でした。
もう少し、時代を絞り込んでこの撫子栽培家を特定する必要があるようです。
前出の平野氏の著作で
天保年間刊「繍像百人狂歌弄花集」に「朧月庵二泉(ろうげつあんじせん)」とある人物であろう。
とされていることについても調べてみました。
「繍像百人狂歌弄花集」は、
平野氏によれば、天保年間の刊行とされていますが、実際には、その初版は、「江戸狂歌壇史の研究(石川了著)」によれば、右馬耳風編・田鶴丸撰の肖像画入狂歌集で文化十四年七月に名古屋で刊行されたもので古今の尾州人の歌のみを治めたもののようです。
その意味では、「朧月庵二泉」も一歌のみの収録ですが、尾州人ということになります。前出の天保9年刊行の「爲御覧瞿麦変草変花」にある朧月庵であれば、天保年間の刊行でなくとも、その23〜24年前に刊行された歌集に収録されているような人物であってもおかしくありません。同じ人物である可能性も十分に考えられますが、小日向の花合などへの出席から、江戸在住の尾州出身者ということになります。
<この章、続く>