藜の葉は、「吸い物」に使われます。
あかざの羹(あつもの)
という言い方をご存じでしょうか?
あかざの葉は、丸みがかった菱形です。この「あかざの羹」という表現は、「粗末な食事」の形容に使われてきました。路傍に良く見られるアカザだから、簡単に利用できる反面、それほど美味しくはないということかもしれません。
こうした表現が見られるは、古くは徒然草です。出家、遁世のすすめを述べる段に見られます。
◆徒然草(上)の第58段 道心あらば、住む所にしもよらじ◆
「道心あらば、住む所にしもよらじ」
とは、信心さえあれば、(在家でも)何処に住んでいてもよいという意味です。
この段の全文は、以下の通りです。
<全文、転載>
「道心あらば、住む所にしもよらじ。家にあり、人に交はるとも、後世を願はんに難かるべきかは」と言ふは、さらに、後世知らぬ人なり。げには、この世をはかなみ、必ず、生死を出でんと思はんに、何の興ありてか、朝夕君に仕へ、家を顧みる営みのいさましからん。心は縁にひかれて移るものなれば、閑かならでは、道は行じ難し。
その器、昔の人に及ばず、山林に入りても、餓を助け、嵐を防くよすがなくてはあられぬわざなれば、おのづから、世を貪るに似たる事も、たよりにふれば、などかなからん。さればとて、「背けるかひなし。さばかりならば、なじかは捨てし」など言はんは、無下の事なり。さすがに、一度、道に入りて世を厭はん人、たとひ望ありとも、勢ある人の貪欲多きに似るべからず。紙の衾、麻の衣、一鉢のまうけ、藜の羹、いくばくか人の費えをなさん。求むる所は得やすく、その心はやく足りぬべし。かたちに恥づる所もあれば、さはいへど、悪には疎く、善には近づく事のみぞ多き。
人と生れたらんしるしには、いかにもして世を遁れんことこそ、あらまほしけれ。偏へに貪る事をつとめて、菩提に趣かざらんは、万の畜類に変る所あるまじくや。
<転載、以上>
この中の「藜の羹」の一文は、以下の意味です。
紙の衾、麻の衣、一鉢のまうけ、藜の羹、いくばくか人の費えをなさん
<歌の意味>
紙衾(かみふすま)、麻衣、一鉢のご飯、 藜<アカザ>の羹<あつもの=吸い物>などにどれほどの出費が必要であろうか。紙衾は夜具、麻衣は衣服、一杯の飯とアカザの吸い物は貧しい食事の象徴です。