【田無げら<田無ギリ>】

この品種は、園芸品種の「江戸キリシマ」の一品種。
学名では、品種名:Rhododendron obtusum cv Tanashigeraとなっています。

以下に「日本の園芸ツツジ」(ガーデンライフ編、1979年刊行)での熊倉弘氏の田無げらについての解説を転載して、ご紹介します。

<転載部分>

田無げら<たなしげら>

花は朱紅色の一重咲きです。花弁は本霧島よりやや小型で、弁の先はわずかにとがります。一週間位の早咲きです。
この品種は枝が細く、ねばりがあるので、「しおり」が容易なため、昔は生け花材料としてよく用いられましたが、最近はわずかになりました。
東京の田無地方で育成されたもので、田舎げら、武蔵野、早生きりしまなどとも呼ばれています。
冬期の落葉は、他の品種より多くあります。花色があまりさえないので、けら霧島の一品種です。

<転載、以上>

筑波実験植物園の植物目録2013には、180Pに<キリシマツツジ“田無ゲラ”の記述が見られます。

同目録は、こちらから、ご覧いただけます。

「田無での育成」

実際に田無での育成はどのような経緯で始まり、その現状はどのようなものかを以下に調査、研究していきます。

●田無とツツジ

田無市の花は、「タナシツツジ」となっています。

初めに田無という土地について知っておく必要があります。

田無は、その地名の生い立ちを田無市の公式サイトから、以下に転載します。

<転載部分>

田無発祥の地は、年代は明らかではありませんが、水の便に恵まれていた谷戸地域であろうと推定されています。
 かつて、この地には、稲荷社や白山社、弁天社、田無山総持寺の前身である西光寺がありました。田無神社は尉殿権現社として宮山(現在の市立田無第二中学校敷地内)に建立されていました。
 確かな記録としては、小田原城に拠点をおいた後北条家の文献「小田原衆所領役帳」の中に「田無」の名がみられ、これにより室町時代の田無は、戦国大名の支配下にあったということがわかります。
 慶長8年(1603年)に徳川家康が江戸幕府を開いたころの田無は、幕府の天領(直轄地)と旗本知行地が入り組んでいましたが、後に、代官のもとで名主によっておさめられました。

<転載、以上>

江戸時代は、青梅街道の宿場町として栄えたようです。染井の里などで作られた霧島つつじ(江戸きりしま)が如何にして、この田無で田無ツツジ、田無げらを産んだのかを今後調査していく予定です。


また、ツツジは、小平市の花ともなっているようです。

小平市の花・「ツツジ」

小平市は、市の花として、ツツジを制定している。この由来にこの地域で育てられたツツジが「田無ぎり」と呼ばれたことを市の公式サイトに以下のように解説しています。

<小平市公式サイトより転載>

ツツジは、しんの強さと花の美しさが愛され、どこの家庭にも植えられています。とくに小平では、古くから田無ぎりとして霧島ツツジ、紅霧島ツツジが栽培され、枝物として大量生産されています。ツツジの強さと開花期の長いことは、市政の充実と躍動を表すものといえます。(制定:昭和43年10月1日)

<転載、以上>
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田無ギリ、田無ゲラ