【万葉集に詠われた「あじさゐ・紫陽花」を知る】

万葉集には、紫陽花の歌は2首のみです。

【第四巻】

相聞だけで構成されています。大伴家持(おおとものやかもち)と女性たちとの贈答歌が多く載せられています。

4-0773:
言問はぬ木すら紫陽花諸弟らが練りのむらとにあざむかえけり作者は、大伴家持。

原文:事不問 木尚味狭藍 諸弟等之 練乃村戸二 所詐来

読み: 言(こと)問わぬ、木すら紫陽花、諸弟(もろえ)らが、練(ねり)の村戸にあざむかえけり

意味:ものを言わない木でさえ、紫陽花(あじさい)のように色鮮やかに見せてくれますね。それ以上に言葉をあやつる諸弟たちの上手い言葉にすっかりだまされてしまったことですよ。


大伴家持が大伴坂上大嬢に贈った歌です。原文では、「味狭藍」という表記を使っています。この名前(和名・漢名)について、「万葉植物事典」(北隆館刊行、1995年)では、以下のように説明しています。

<転載部分>

和名のアジサイのアジはアツで集まること、サイは真藍(さあい)からきていて、青い花が集まって咲くこと、すなわち集真藍(あづさあゐ)に由来している。
アジサイはふつう紫陽花と書かれているが、これは白楽天が江州の郡守をしていた時、その地にある招賢寺を訪れたところ、そこに名前のわからないという珍しい花木があるということで案内された。その木には白色と碧色のまじった球状の花が咲いていた。そこで、詩をつくり、この中で「君がため名づけて紫陽花となさむ」と記した。

万葉表記 安治佐為・味陝藍


<転載、以上>

次の第二十巻の1首は、上記の「安治佐為」という表記を使っています。
また、歌を送られた大伴坂上大嬢は、家持の妻のようです。詳細は、以下の通りです。


<Wikipediaより、転載>

大伴坂上大嬢(おおとも の さかのうえ の おおいらつめ、生没年不詳)は、大伴宿奈麻呂と坂上郎女の長女で、妹に坂上二嬢がいる。
大伴家持の従妹でのち正妻になる。名は坂上大娘とも見える。大嬢を「おほひめ」「おほをとめ」などと訓む説もある。天平4年(732年)頃から家持との間に歌の贈答が見られるが、その後離絶。天平11年(739年)頃から再び交渉を持ち、恭仁に都があった頃(天平12年(740年) - 16年(744年))、家持の正妻になったかと思われる。

<転載、以上>



【第二十巻】

20-4448:
紫陽花の八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ作者は、橘諸兄(たちばなのもろえ)

原文:安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都々思努波牟

読み: 紫陽花(あじさい)の八重咲く如く、弥(や)つ代にを、いませわが背子、見つつ思(しの)はぬ

意味:紫陽花(あじさい)の花が八重に咲くように、いついつまでも栄えてください。あなた様を見仰ぎつつお慕いいたします。

第二十巻は防人の歌が多く集められた巻です。この歌の前の歌は、天平勝宝7年(西暦755)5月11日)に橘諸兄が丹比国人(たじひのときひと)の邸宅で宴(うたげ)をし、この席で丹比国人(たじひのときひと)が詠んださらに前のなでしこの歌に答えて、橘諸兄が詠んだ歌です。この歌は、「左大臣橘卿、右大弁丹比国人真人の宅に宴する歌」と記されており、天平勝宝七年(755)五月、丹比国人(左大臣多治比嶋の孫)邸での宴に招かれ、紫陽花に寄せて詠んだ歌。宴の主人である国人の長寿を言祝(ことほ)ぐ意味を込めた歌だったことが解ります。ただ、以下のWikipediaにもあるように天平勝宝7年(755年)11月に、聖武上皇の病気に際して酒の席で不敬の言があったと讒言されたこともあり、聖武上皇への思いを託したと言えなくもないように思えます。

橘諸兄については、以下にWikipediaの情報を転載しておきます。


<Wikipediaより、転載>

橘諸兄(たちばな の もろえ、天武天皇13年(684年)- 天平勝宝9年1月6日(757年1月30日))は、奈良時代の政治家・元皇族。敏達天皇の後裔で大宰帥美努王の子。元の名前を葛城王(葛木王・かつらぎのおおきみ)。正一位・左大臣。井手左大臣または西院大臣と号する。初代橘氏長者。

【生涯】

敏達天皇の5世(もしくは4世)子孫で諸王であった。天平8年(736年)弟の佐為王と共に母・橘三千代の姓氏である橘宿禰を継ぐことを願い許可され、以後は橘諸兄と名乗る。
天平9年(737年)、疫病の流行によって藤原四兄弟をはじめとして、多くの議政官が死去してしまい、出仕できる公卿は従三位左大弁諸兄と同大蔵卿鈴鹿王のみとなった。そこで朝廷では急遽同年の8月24日、諸兄を次期大臣の資格を有する大納言に、4日後に鈴鹿王を知太政官事(令外官、太政大臣と同格で皇族であることが任用条件)に任命して応急的な体制を整えた。翌10年(738年)1月13日、諸兄は正三位右大臣に任命され、一躍朝廷の中心的存在となった。
これ以降、国政は橘諸兄が担当し、聖武天皇を補佐することになった。天平15年(743年)5月5日、従一位左大臣となる。天平感宝元年(749年)、正一位に陞階。生前に正一位に叙された人物は日本史上でも6人と数少ない。孝謙天皇の時代になると、藤原仲麻呂(恵美押勝)の発言力が増すようになる。天平勝宝7年(755年)、聖武上皇の病気に際して酒の席で不敬の言があったと讒言され、同8年(756年)2月2日辞職を申し出て引退する。同9年(757年)1月6日に死去。
諸兄の死の同年、息子の奈良麻呂は謀反(橘奈良麻呂の乱)を起こし獄死している。
大伴家持と親交があり、『万葉集』の撰者の1人とする説もある。『栄花物語』月の宴の巻に、「むかし高野の女帝の御代、天平勝宝5年には左大臣橘卿諸兄諸卿大夫等集りて万葉集をえらび給」との記述があり、元暦校本の裏書に、またある種の古写本の奥書にも入っており、一定の信憑性をもつものとされる。後に仙覚は橘諸兄・大伴家持の2人共撰説を唱えている。『万葉集』では7首の歌を残している。

<転載、以上>