菊研究で知られる北村四郎教授によると、
「菊」がはじめて中国の文献にあらわれるのは、紀元前200年頃のこととされています。
『礼記』の「月令」に、
「季秋の月に鞠に黄花あり」とあるのがそれです。
この「鞠」という表記は、後に上に草冠の付いた「」となり、その後に現在の「菊」と書くようになりました。想像では、菊の頭花が丸く、これを当時、皮などでつくった蹴鞠になぞらえたためではないかという説を述べておられます。
当時の中国の菊は、中国北部に野生して、秋の末に、黄色の小さな花をたくさんつける、セイアンアプラギクか、ホソバアブラギクにあたるので、一慨にそうはいえないかもしれません。
(参照文献:『朝日百科 世界の植物4「キク」:北村四郎著』)
「アブラギク」と呼ばれたのはあくまで、日本での命名です。江戸時代に長崎でこの花を油に浸して傷薬にしたところからの命名で、中国でこう呼ばれていたわけではありません。中国での呼び名は、「野菊、野黄菊、苦薏」でした。
【漢方薬としての菊花】
また、漢方薬学の歴史から見ると、以下のように野菊の花の部分が漢方薬として、古くから用いられ、知られていたようです。
<文献転載>
産地ー中国大陸。薬用部位ー花。 薬効ー解熱、解毒。 基源(学名、和名)−Chrysanthemum indicum L. シマカンギク。 キク科。くよく(苦薏) 野菊花。
中国最古の薬物書「神農本草経」に記されている菊は苦薏の類のセイアンアブラギクであろう。
(難波恒雄著、漢方薬入門、保育社)
<転載、以上>
以下に中国古代の本草書「神農本草経」についても簡単にご紹介しておきます。
<Wikipediaより、転載>
「神農本草経」とは
後漢から三国の頃に成立した中国の本草書である。
『神農本草経』は神農氏の後人の作とされるが、実際の撰者は不詳である。365種の薬物を上品・中品・下品の三品に分類して記述している。上品は無毒で長期服用が可能な養命薬、中品は毒にもなり得る養性薬、下品は毒が強く長期服用が不可能な治病薬としている。
500年(永元2年)、南朝の陶弘景は本書を底本に『神農本草経注』3巻を撰し、さらに『本草経集注』7巻を撰した。陶弘景は内容を730種余りの薬物に増広(ぞうこう)している。
こうして中国正統の本草書の位置を占めるようになったが、現在みることができるのは敦煌写本の残巻や『太平御覧』への引用などにすぎない。
<転載、以上>