【俳句と木瓜】

1)正岡子規の俳句

正岡子規「寒山落木 巻二」明治26年作の俳句集には、「木瓜の花」として、幾つかの句が掲載されています。正岡子規が自選した句集のため、墨で消された句も見られる、貴重な句集です。
その木瓜のページを国会図書館のデジタルライブラリーの同句集の画像から、以下に転載して、ご紹介します。
正岡子規は、大学中退後、叔父・加藤拓川の紹介で1892年(明治25年)に新聞『日本』の記者となり、家族を呼び寄せそこを文芸活動の拠点とした。1893年(明治26年)に「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載し、俳句の革新運動を開始しました。そうした時期の句集です。
(明治26年作。1975(昭和50)年12月、講談社「子規全集」一巻に所収。)

<転載ページ「木瓜花」>




<転載、以上>

近江路や茶店茶店の木瓜の花
講ありて宵の頃なり木瓜の花
草むらや菫まじりに木瓜の花
江戸を出て木瓜の花垣めづらしや
よく見れば木瓜の莟や草の中


良く引用される「初旅や 木瓜もうれしき 物の数」という句以外の木瓜の花の句が見られます。

2)大谷光演(句仏)の俳句

大谷光演は、(俳号は、大谷句仏)明治大正期の俳人でホトトギス派に属し、正岡子規などの影響下に俳人として活躍した東本願寺の法主。

<Wikipediaより、転載>

大谷光演(おおたに こうえん)は、明治から大正時代にかけての浄土真宗の僧。法名は「彰如」(しょうにょ)。東本願寺第二十三代法主。真宗大谷派管長。俳人。伯爵。
妻は、三条実美の三女・章子。

1900年まで南条文雄・村上専精・井上円了らについて修学。また幸野楳嶺や竹内栖鳳に日本画を学び、さらに正岡子規の影響を受け、『ホトトギス』誌にて河東碧梧桐、高浜虚子らに選評してもらい、彼らに傾倒して師と仰いだ。後に『ホトトギス』誌の影響から脱し独自の道を歩む。生涯に多くの俳句(約2万句)を残し、文化人としての才能を発揮、日本俳壇界に独自の境地を開いた。「句仏上人」(「句を以って仏徳を讃嘆す」の意)として親しまれる。

1901年に札幌で宗教系の学校が北星女子学校しか無い事を知り仏教系の女子学校を思い立つが、資金調達に難航し1902年(明治35年)に北海道庁立札幌高等女学校を開設するには至らなかったが、4年後の1906年4月に北海女学校を開校に漕ぎつけた。

生涯

本山は「本願寺」が正式名称だが、「西本願寺」との区別の便宜上、「東本願寺」と表記。
1875年(明治8年)2月27日、 東本願寺第二十二代法主 現如の次男として誕生。
1885年(明治18年)、得度。
1900年(明治33年)5月仏骨奉迎正使としてタイを訪問
1901年(明治34年)真宗大谷派副管長
1906年(明治39年)札幌で仏教主義の女子学校として北海女学校を開校。
1908年(明治41年)11月、退隠した父・光瑩より第二十三代法主を継承し、真宗大谷派管長となる。
1911年(明治44年)、宗祖親鸞聖人六百五十回御遠忌法要を厳修。
1925年(大正14年)、朝鮮半島における鉱山事業の失敗から、東本願寺の財政を混乱させ引責・退隠し、長男の闡如に法主を譲る。
1943年(昭和18年)2月6日、68歳にて示寂。

関連項目

清沢満之
近角常観
佐々木月樵
暁烏敏
近衛文麿 - 大正12年2月、ローマ教皇庁に使節団を派遣するにあたり、当時の仏教会から猛烈な反対運動が起き、来るべき総選挙を控えて無視できない状況となった。光演と姻戚関係にあり、高田派の常磐井堯熙とも叔父甥の関係を持つ近衛の態度が重要な役割を持っていた。

著書

『句仏句集』読売新聞社、1959年。
『俳諧歳時記 新年』共著、改造社、1948年。
『我は我』書物展望社、1938年。
『夢の跡』政経書院、1935年。
『この大災に遇うて』中外出版、1923年。
『法悦の一境』内田疎天編広文堂、1920年。
安部自得編『句仏上人俳句頂戴鈔』、法藏館、1910年。
『自然のままに』真宗大谷派宗務所出版部、1992年。

<転載、以上>

前のコンテンツにも紹介しましたが、句集「我は我」に以下のような木瓜の句があります。

木瓜の花こぼれし如く低う咲く

晩年、亡くなる5年前、63歳に出版した句集「我は我」に収録された俳句のようです。この時期は、大谷氏の上記の紹介にもあるように、既にホトトギス派の影響下を脱して、独自の境地で句作していた時期です。詳細は、実際の句集を読んでみて、ご紹介します。


3)漱石と「草枕」の木瓜は、陶淵明から?

漱石がいつ頃から陶淵明に傾倒していったのかはよく知らないが、明治29年1月の子規への手紙の中にこんな一文がある。松山赴任中の漱石が年末年始に東京へ帰り、見合いや句会をこなしてまた松山へ戻ってからのものだ。

「帰途、米山より『陶淵明全集』を得て目下誦読中、甚だ愉快なり。」
 
米山とは米山保三郎のことで、建築家を志望していた漱石に文学者になることを勧めたと言われている夭折した親友です。漱石がこの陶淵明を好んでいたことを知って、以下の草枕の主人公の一文を読むと、「拙を守る人」という意味合いが見えてきます。

「木瓜(ぼけ)は面白い花である。枝は頑固で、かつて曲った事がない。そんなら真直かと云うと、けっして真直でもない。ただ真直な短かい枝に、真直な短かい枝が、ある角度で衝突して、斜に構えつつ全体が出来上っている。そこへ、紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く。柔かい葉さえちらちら着ける。評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。世間には拙を守ると云う人がある。この人が来世に生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい。


●陶淵明は、地方の役人や小さな町の町長(県令)などをしていたが、41歳のとき、職を辞して郷里に帰ってきた。そのときの詩が有名な「帰去来辞」です。
また、故郷に帰った淵明が心境を綴った「帰園田居」という詩があり、世俗にまみれた窮屈な役人生活から解放され、超脱して桃や李の里に過ごす喜びが表現されている。この中に[size=medium]「守拙帰園田」 (拙を守って園田に帰る)
という言葉が出てきます。

漱石は陶淵明の「拙を守る」という生き方に大いに共感したようです。彼自身の考え方、物の見方の核ともなり、小説や俳句などによく、この「拙を守る」を使いました。 もちろん、この「拙を守る」は、『菜根譚』(中国明末の清言の書)の中の以下一節からも良く知られていました。

「文は拙をもって進み、道は拙をもって成る。一の拙の字、無限の意味あり」意味:文を作る修業は拙を守ることで進歩し、道を行なう修養は拙を守ることで成就する。「拙」は辞書でその意味を引くと:「つたない。小細工を用いず、自然で飾らぬ意。」です。中国での「自然のままに飾らない生き方」として、良く使われています。


【菜根譚とは】

<Wikipediaより、転載>

菜根譚(さいこんたん)は、中国の古典の一。前集222条、後集135条からなる中国明代末期のものであり、主として前集は人の交わりを説き、後集では自然と閑居の楽しみを説いた書物である。別名「処世修養篇」(孫鏘の説)。明時代末の人、洪自誠(洪応明、還初道人)による随筆集。その内容は、通俗的な処世訓を、三教一致の立場から説く思想書である。中国ではあまり重んじられず、かえって日本の加賀藩儒者、林蓀坡(1781年-1836年)によって文化5年(1822年)に刊行(2巻、訓点本)され、禅僧の間などで盛んに愛読されてきた。尊経閣文庫に明本が所蔵されている。

菜根譚という書名は、朱熹の撰した「小学」の善行第六の末尾に、「汪信民、嘗(か)って人は常に菜根を咬み得ば、則(すなわ)ち百事做(な)すべし、と言う。胡康侯はこれを聞き、節を撃(う)ちて嘆賞せり」という汪信民の語に基づくとされる(菜根は堅くて筋が多い。これをかみしめてこそものの真の味わいがわかる)。
「恩裡には、由来害を生ず。故に快意の時は、須(すべか)らく早く頭(こうべ)を回(めぐ)らすべし。敗後には、或いは反(かえ)りて功を成す。故に払心の処(ところ)は、便(たやす)くは手を放つこと莫(なか)れ(前集10)」(失敗や逆境は順境のときにこそ芽生え始める。物事がうまくいっているときこそ、先々の災難や失敗に注意することだ。成功、勝利は逆境から始まるものだ。物事が思い通りにいかないときも決して自分から投げやりになってはならない)などの人生の指南書ともいえる名言が多い。日本では僧侶によって仏典に準ずる扱いも受けてきた。また実業家や政治家などにも愛読されてきた。

<転載、以上>

<この項、続く>