先ず、「植木・鉢物」は、園芸という文化に対してどのような位置づけにあるかをお話しします。
園藝とは?
(Wikipediaより)
「園芸」とは、本来「園藝」と書き、「藝」は「植える」こと、つまり園藝は「(植物を)園に植える」という意味であり、「農業」とは別のもので、古くは中国明代の文献にあらわれる言葉である。どの分野に関わるかによって園芸の定義、範疇は一定していない。また「藝」の字は本来「植える」という意味だが、その簡略字「芸」が当用漢字となり別字「芸(ウン・水草の一種)」とまったく同じになってしまったので、一部に誤解も生じている。
しかも。この園芸には、「農業としての園芸(生産園芸)」と「文化としての園芸(鑑賞園芸)」の二つがあり、このコーナーで主に取り上げるのは、鑑賞園芸についてです。もちろん、鑑賞園芸について知るには、農業としての園芸の発展も無視することはできません。産業・農業としての園芸も部分的には取り上げる予定です。
(Wikipediaの「文化としての園芸」より)
歴史的に見ると、古代においては園芸は農業となんら変わるものではなかった。つまりもともと食糧や実用として栽培されていた植物を、次第に視覚や嗅覚の充足のため、つまり実用と食欲以外の人間の精神的欲求を満たすために栽培するようになったことが園芸の始まりであろう。やがて都市が発達するとともに、建築と合わせて庭園が生まれ、園芸はそこに取り込まれ、長い間庭園術の支配下に置かれた。しかし、「育種」によって園芸植物に品種が多くなり、庭園よりもより個々の植物に視点が集中したり、植木鉢の登場によって園芸植物を庭園から切り離すことが可能になると、園芸は次第に農業の範疇や庭園術の束縛から離れて、一つの文化として成り立つようになる。日本においてはそれが特に顕著に見られ、江戸時代になると園藝が非常に発達するが、当時は「樹藝」あるいは「農藝」という語が普通であり、すでに農業の一分野というよりも芸道、または娯楽のひとつとしてとらえられていた。日本最古の園芸書である「花壇綱目」(水野勝元著・1681年 {天和元年} 刊)にも、園芸を武道や詩歌、音楽などの諸芸道と同等の存在として列する著述がみられる。その後キク、ツツジ、サクラソウ、アサガオ、ハナショウブ、ツバキ、マツバラン、オモト、長生蘭、富貴蘭などの育種や盆栽の技術が進み、これらを美術品のように扱うのが当たり前になり、更なる美が追求されると共に園芸はますます芸道化され、新品種が高額で取引されたり、同好者たちの間で家元制的な組織も生まれた。このような例は日本のみならず英国のフローリスツ・フラワーにも見られる。また、中国では宋の頃からシュンランの栽培にあたって文人思想が反映されるなど、園芸においては植物の栽培、育種に人間の精神性が要求されたり、時代ごとの思潮や美意識が反映されて来た。
(転載部分以上)
大事なのは、この赤の太字の部分です。「鉢物(植木鉢)」の登場によって、その鑑賞園芸文化がより発展してきたということです。それは、植木家、植木職人の活躍によってさらに発展してきたのです。
もちろん、花開いたのは、江戸時代かもしれませんが、東洋花卉センターとしての「中国」の影響化で、古く平安時代までも遡って、鉢物、盆景などとしての文化輸入が日本に鉢物文化をもたらしたことが予想されます。このカテゴリーでは、こうした中国からの鉢物の文化の輸入も「中国園芸文化」を扱う予定の海外園芸文化のカテゴリーとも並行して、進めていきます。
このコーナーづくりの発端は、さくらそう栽培文化を研究する過程で「鉢物」「植木(職人とその文化)」の発展史と現在を「知る」「発見する」ことで、今の鑑賞園芸文化をさらに先へと発展させるヒントを見つけることができるのではないかと考えたことが発端でした。
つまり、さくらそう栽培に限らず、広く鉢物文化を知ることで、
いままでのように、今の「さくらそう栽培技術」だけを取り上げることよりもさくらそう栽培文化をより深く、理解できるようになるのではないかと考えました。
文化研究は、ある文化を広く、その文化の周辺も含めて鳥瞰することがその文化を「より深く知る」ことになると確信しています。