【東京多摩地区の桑畑】
東京多摩地区の西部の日野市の情報を例にとって、明治期の多摩地区での養蚕のための桑畑について、見て行きます。
<「日野の歴史−民俗史編」報告者:金野啓史(日野市教育委員会教育部文化スポーツ課文化財係)より、転載>
旧日野町は、近代まで水田稲作を主体に副業としての養蚕が盛んに行われてきた。
台地では、天保以降になると新田開発が行われ、八王子の高倉新田という新田集落が開発されるなどした。しかし台地上は水田稲作に向かない。明治時代まで、雑木林と畑が混在し、麦や陸稲、根菜類などが作られるという状況が続いていたが、明治20年代から殖産振興策の一環として養蚕が推奨され、桑畑が作られるようになった。特に日野市域は、八王子という絹織物の産地に隣接しているという条件もあった。桑畑はまず多摩川や浅川の沿岸の稲作に不向きな土地に作られたが、養蚕が隆盛を迎えると、桑畑は日野台地上に広がっていった。明治末年には若干の雑木林を残して、日野台地はすべて桑畑になったと言えるほどに変化した。
<転載、以上>
この日野市の例を見ると「政府の明治20年の殖産振興策」と「八王子の絹織物産地」という条件が大きかったことが解ります。前の項目にあった東京の多摩西郊に「桑」の需要が高まり、植木業がそれに応えていったといった背景が浮かび上がってきます。
八王子という北関東の養蚕業中心地から、東京への糸の輸送の中継地として、江戸時代からの市が存在し、その後、その土地の利を活かして、絹織物が発展したことも大きな要因だったようです。
【甲武鉄道開通の影響は】
甲武鉄道は、中央線の前身となる明治期に多摩地区に敷かれた鉄道。そのきっかけは、1870年に開業したものの、2年後に廃止された玉川上水の船運の代わりに、その堤防沿いに新宿 - 羽村に馬車鉄道(甲武馬車鉄道)の敷設するという企画だったようです。そうしたことも背景にあって、東京市内ではなく、当初は、1889年4月に新宿 - 立川、同年8月には 立川 - 八王子が開業しました。貨物輸送の手段として、多摩地区にとっては重要な輸送機関となりました。
少なからず、この地区の産業育成に大きな役割を果たしたことが予想されます。