我が国における公園制度の始まりは、明治6年(西暦1873年)の太政官布告第16号によって府県に対し、公園という制度を発足させるので、ふさわしい土地を選定して伺い出るようにと通達した太政官布達ことによります。
公用文で「公園」という語が使われたのはこの太政官布告が最初だったようです。以下のその布告をご紹介します。
「明治6年1月15日 太政官布達第16号」
府県ヘ
○ 公園設置ニ付地所選択ノ件
三府ヲ始人民輻輳ノ地ニシテ古来ノ勝区名人ノ旧跡等是迄群集遊観ノ場所(東京ニ於テハ金龍山浅草寺東叡山寛永寺境内ノ類、京都ニ於テハ八坂社清水ノ境内嵐山ノ類総テ社寺境内除地或ハ公有地ノ類)従前高外除地ニ属セル分ハ永ク万人偕楽ノ地トシ公園ト可被相定ニ付府県ニ於テ右地所ヲ択ヒ其景況巨細取調図面相添ヘ大蔵省ヘ可伺出事」
<以上>
この太政官布告を受けて、東京府は太政官政府に対して、浅草(金竜山浅草寺)、上野(東叡山寛永寺)、芝(三縁山増上寺)、深川(富岡八幡社)、飛鳥山の5箇所を上申して、東京に五つの公園が生まれました。
元々、江戸時代から、市民遊興地でもあったのが、この5か所です。
現在の公園といえる場所は、上野と飛鳥山の二か所のみで、後は神社仏閣の敷地です。もちろん、当時は、太政官布告にもあるように人々の集まる古くからの名勝で緑豊かな広大な敷地という意味では、ほとんど変わらない認識だったのでしょう。
この太政官布告成立の背景は、大阪府立大学農学部の高橋理喜男教授の論文「太政官公園の成立とその実態」によると以下の通りです。
<論文より転載>
本邦における公園の発祥の原点となった明治6年の太政官布達によると,公園設置の要件として2つ挙げている。1つは地盤が官有地であること,もう1つは「群集遊観ノ場所」であること,この2つである。
前者についていえば,すでに封建的土地所有形態の解体によって,社寺境内地や名勝地や城地を公園の候補地として具申することはきわめて容易であったとみてよい。
一方,後者についても,江戸時代以来,庶民的戸外レクリェーション地のゆたかな蓄積が,とくに城下町を中心とする都市型にみられた。したがって,この布達は以上のような社会的歴史的趨勢をふまえたものであることは否定できない。しかし内外ともに多難な局面に立たされていた新政府の側に,こと民衆のレクリェーションにまで思いをめぐらすほどの政治的ゆとりがあったとは到底考えられない。とすれば,布達の背後に,何らかの形で,外国の強い影響の介在を認めざるを得ないと思う。
ここに分達の本質を見出すことができる。すなわち,公園という新しい西欧的概念と,伝統的レクリェーション遺産という古い実在との癒着,これが布達の本質的性格であると規定することができる。
ところで,外国の影響がどのような経路でこの布達に関与したかは判っていない。通説として,ボードウィンの建白説と,居留地外人の公園要求論があるが,いずれも具体性に乏しく,またいくつかの弱点も指摘できる。
したがって,その実証に関しては今後の究明に残された課題である。太政官布達の反響は,当時の混沌とした社会情勢にもかかわらず,意外に早く全国的にあらわれた。
西南の役が終結した明治10年までの僅か5年間の間に,開設公園数67ヵ所に達し,そのあとの10年間における開設数を遥かに上回る結果を示した。しかしながら,布達は「群集遊観ノ場所」としている以外に選定の規準を示していなかったため,さまざまの公園が輩出した。それらは立地条件によって,日常生活圏内にある真正の都市公園的タイプと,その圏外に出る郊外公園的タイプに分けることができる。前者は金沢兼六公園などに典型的にみられる如く,庶民の利用度も高く,公園の整備にもそれ相応の努力がみられた。それに反して,交通の便も悪い郊外公園的タイプとなると,人の足も遠く,ただ名称のみにとどまる公園も少なくなかったようである。これらの公園が脚光を浴びるようになるのは,都市化の進展が活発になる明治後期頃からである。
このように,実体の伴わない公園が多数出現したのは,布達の本質とする「資源依存性(Resource-based)」に根ざしており,都市公園本来の「利用者指向性(User-oriented)」を明確に打ち出さなかったことによる。そこに太政官布達の歴史的限界があったと思う。それが永年にわたって,わが国の都市公園の在り方を規定しつづけてきたのである。
<転載、以上>
出だしが悪いとこんな結果という話でしょうか。
植木文化という側面では、あくまで政府、自治体で指定しただけのことですから、植栽をどのようにしたということではなく、この太政官不布告自体は、植木業への影響はさほどなかったようです。
注:ボールドウィンの建白説とは
あくまで上野公園での話です。
当時、今の上野公園の周辺は戊辰戦争によって消失し荒れ果てていました。そこで木を切り倒してお茶畑や桑畑にする案や不忍池を埋め立てて水田にする案がでましたが、結局は病院の建設が始まりました。ところが、自ら求めた病院建設地ということで上野を訪れていたオランダの医師ボードウィン博士が『公園』という言葉がまだなかった日本に公園を造ることを提言したのです。荒れ地になっているとはいえ、まだまだたくさん残っている自然をつぶしてしまうのはもったいないと考えたのでしょう。
ボールドウィン博士の案はすぐに採用されてすでに始まっていた病院の建設も中止されたそうです。これが、太政官布告のきっかけになったという説です。
こうした太政官布告で誕生した東京府立公園の実際に整備したのは、東京府の土木掛です。この東京府の動きについては、こちらのカテゴリーをご覧ください。この章以降では、国策としての公園づくりとその目的と実際を見て行きます。
<この項、了>
公用文で「公園」という語が使われたのはこの太政官布告が最初だったようです。以下のその布告をご紹介します。
「明治6年1月15日 太政官布達第16号」
府県ヘ
○ 公園設置ニ付地所選択ノ件
三府ヲ始人民輻輳ノ地ニシテ古来ノ勝区名人ノ旧跡等是迄群集遊観ノ場所(東京ニ於テハ金龍山浅草寺東叡山寛永寺境内ノ類、京都ニ於テハ八坂社清水ノ境内嵐山ノ類総テ社寺境内除地或ハ公有地ノ類)従前高外除地ニ属セル分ハ永ク万人偕楽ノ地トシ公園ト可被相定ニ付府県ニ於テ右地所ヲ択ヒ其景況巨細取調図面相添ヘ大蔵省ヘ可伺出事」
<以上>
この太政官布告を受けて、東京府は太政官政府に対して、浅草(金竜山浅草寺)、上野(東叡山寛永寺)、芝(三縁山増上寺)、深川(富岡八幡社)、飛鳥山の5箇所を上申して、東京に五つの公園が生まれました。
元々、江戸時代から、市民遊興地でもあったのが、この5か所です。
現在の公園といえる場所は、上野と飛鳥山の二か所のみで、後は神社仏閣の敷地です。もちろん、当時は、太政官布告にもあるように人々の集まる古くからの名勝で緑豊かな広大な敷地という意味では、ほとんど変わらない認識だったのでしょう。
この太政官布告成立の背景は、大阪府立大学農学部の高橋理喜男教授の論文「太政官公園の成立とその実態」によると以下の通りです。
<論文より転載>
本邦における公園の発祥の原点となった明治6年の太政官布達によると,公園設置の要件として2つ挙げている。1つは地盤が官有地であること,もう1つは「群集遊観ノ場所」であること,この2つである。
前者についていえば,すでに封建的土地所有形態の解体によって,社寺境内地や名勝地や城地を公園の候補地として具申することはきわめて容易であったとみてよい。
一方,後者についても,江戸時代以来,庶民的戸外レクリェーション地のゆたかな蓄積が,とくに城下町を中心とする都市型にみられた。したがって,この布達は以上のような社会的歴史的趨勢をふまえたものであることは否定できない。しかし内外ともに多難な局面に立たされていた新政府の側に,こと民衆のレクリェーションにまで思いをめぐらすほどの政治的ゆとりがあったとは到底考えられない。とすれば,布達の背後に,何らかの形で,外国の強い影響の介在を認めざるを得ないと思う。
ここに分達の本質を見出すことができる。すなわち,公園という新しい西欧的概念と,伝統的レクリェーション遺産という古い実在との癒着,これが布達の本質的性格であると規定することができる。
ところで,外国の影響がどのような経路でこの布達に関与したかは判っていない。通説として,ボードウィンの建白説と,居留地外人の公園要求論があるが,いずれも具体性に乏しく,またいくつかの弱点も指摘できる。
したがって,その実証に関しては今後の究明に残された課題である。太政官布達の反響は,当時の混沌とした社会情勢にもかかわらず,意外に早く全国的にあらわれた。
西南の役が終結した明治10年までの僅か5年間の間に,開設公園数67ヵ所に達し,そのあとの10年間における開設数を遥かに上回る結果を示した。しかしながら,布達は「群集遊観ノ場所」としている以外に選定の規準を示していなかったため,さまざまの公園が輩出した。それらは立地条件によって,日常生活圏内にある真正の都市公園的タイプと,その圏外に出る郊外公園的タイプに分けることができる。前者は金沢兼六公園などに典型的にみられる如く,庶民の利用度も高く,公園の整備にもそれ相応の努力がみられた。それに反して,交通の便も悪い郊外公園的タイプとなると,人の足も遠く,ただ名称のみにとどまる公園も少なくなかったようである。これらの公園が脚光を浴びるようになるのは,都市化の進展が活発になる明治後期頃からである。
このように,実体の伴わない公園が多数出現したのは,布達の本質とする「資源依存性(Resource-based)」に根ざしており,都市公園本来の「利用者指向性(User-oriented)」を明確に打ち出さなかったことによる。そこに太政官布達の歴史的限界があったと思う。それが永年にわたって,わが国の都市公園の在り方を規定しつづけてきたのである。
<転載、以上>
出だしが悪いとこんな結果という話でしょうか。
植木文化という側面では、あくまで政府、自治体で指定しただけのことですから、植栽をどのようにしたということではなく、この太政官不布告自体は、植木業への影響はさほどなかったようです。
注:ボールドウィンの建白説とは
あくまで上野公園での話です。
当時、今の上野公園の周辺は戊辰戦争によって消失し荒れ果てていました。そこで木を切り倒してお茶畑や桑畑にする案や不忍池を埋め立てて水田にする案がでましたが、結局は病院の建設が始まりました。ところが、自ら求めた病院建設地ということで上野を訪れていたオランダの医師ボードウィン博士が『公園』という言葉がまだなかった日本に公園を造ることを提言したのです。荒れ地になっているとはいえ、まだまだたくさん残っている自然をつぶしてしまうのはもったいないと考えたのでしょう。
ボールドウィン博士の案はすぐに採用されてすでに始まっていた病院の建設も中止されたそうです。これが、太政官布告のきっかけになったという説です。
こうした太政官布告で誕生した東京府立公園の実際に整備したのは、東京府の土木掛です。この東京府の動きについては、こちらのカテゴリーをご覧ください。この章以降では、国策としての公園づくりとその目的と実際を見て行きます。
<この項、了>
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緑化・公園づくりが進めた樹木栽培と植木産業 |