明治元年頃の大名屋敷

幕末から明治初期には、荒廃した武家屋敷の姿がここそこに見られたといいます。江戸末期に人口の半分であった武士が帰郷して、家財などがないガランとした武家屋敷(大名上屋敷や旗本屋敷)が東京市内(朱引内)の多くを占めていました
明治3年(1870)5月の調査によれば、1169万坪(面積7割)が武家・寺社地であったため、また、江戸人口の半分近くが武家であったたにその荒廃はすさまじく、江戸の郊外だった現在の港区・目黒区・品川区にも大名下屋敷・旗本屋敷が残されたようです。


【上地令の布告】

明治元年(1868)7月、明治政府は「上地令」を布告。大名諸侯拝領地を除き、旗本や幕府より土地を拝領した町人地の「土地没収」を断行しました。特に御門内は全て没収されました。また朱引内を参考に、東は両国大川端筋、南は芝口新橋筋を郭内としました。

明治元年(1868)8月、郭外の土地建物について、土地は取り上げるが、家作は売るなり、取り壊すなりの判断は自由としたようです。これらは首都を東京にしたときの布石で、郭内の土地建物はそのまま壊さずに保存することにしました。また、郭内においては、藩すべてに1カ所の屋敷所有を認める、郭外においては、藩の大小にかかわらず2カ所の屋敷所有を認めたようです。
しかし、同年11月訂正の布告で、郭外の建物は全てを壊すと土地の境界が不明になるため、「石垣、板塀などは壊すことは禁ずる」と修正されました。

東京府の対策

明治元年(1867)12月、大木喬任は第2代目東京府知事となります。彼は将来のため武家地を保存する方向に努めた。郭外に住む藩の人間は、郭内の屋敷に住むように配慮しました。旧大名が屋敷の拝領願いを出せば、地代を徴収して貸し付けることとしています。

【武家地は桑や茶畑へ転換?】

『明治になって武家屋敷が取り払われた跡地の利用として、明治2年8月、東京府知事大木喬任は太政官に桑茶政策を建言し、物産局が設けられて、桑茶の植付け希望者には地所を払い下げ、または貸与して耕作の奨励をしました。当初は東京市中に長屋門だけあって、桑茶が植っているところが各所にあったようです。六年ごろの白金は台町、猿町、三光町で四万坪の桑畑があったといい、紅い桑の実や、白い茶の花が白金の原に点在していたのであった。』(『白金の歴史』森崎次郎著 港区史跡の会発行 昭和58年)

しかし、明治2年(1868)8月に始まった桑茶政策は翌年3年(1869)に中止されました。しかし、結果として、明治6年(1873)3月の調査によれば、千代田区だけで紀尾井町36.533坪、その他60.000坪が桑茶畑であり、東京だけで100万坪以上が桑茶畑であったとされています。
(『千代田区の歴史』鈴木理生著 名著出版 昭和53年(1978))

【大名屋敷の軍と官舎としての利用】

明治政府に官収された皇居前・丸の内・日比谷公園あたりは武力反乱を恐れる政府により、新しく組織した国軍(近衛兵)の駐屯地になり、大名屋敷は軍官舎として使われた。その使われ方もひどく、襖など取り払い、畳の上に土足で上がるなどしたようです。この使い方が武家屋敷(大名上屋敷や旗本屋敷)を荒廃させました。
それ以外の千代田区番町は新政府の官員の邸宅地に、その他の大名屋敷は各大名が自費で解体しました。移築・売却する方法もあったでしょうが、かなりの坪数があり屋敷(建坪)も広いため、この明治初年では、屋敷の引き取り手は少なかったに違いありません。

明治3年(1870)2月、東京府 は、政府官員などに下げ渡す旗本屋敷の荒廃した修理に費用が掛かるため、低価で払い下げることを決定した。官位によって建坪・畳数まで決められた。明治の役人は官位等が重要視された。この時、「千坪25円の払い下げ」という今からでは信じられない話もある。

明治3年(1870)7月、布告で「各藩は官邸一カ所、私邸一カ所」とされます。
しかも、同年11月、華族となっていた元大名の知事は、国元で知事を務める以外、東京の私邸に住むことが決定されたのです。このため元大名屋敷だった私邸は取り上げることの出来ない私有地となります。

陸軍用地の強引な上地は批判を招き、徐々に替地や買い取るなどの方法に移っていったようです。


そうして、明治4年の廃藩置県を迎えます。