トップ  >  植木・鉢物文化の今とその変遷を知る  >  地域別の植木文化  >  東京の植木  >  東京内の各地域別の植木文化を知る  >  小金井の植木文化と産業  >  明治期:小金井を含む、多摩地域の全域での植木栽培開始の背景
【山林樹苗、養蚕桑苗、食用または鑑賞用果樹苗の生産販売者との結びつきから】

本サイトの別章「武蔵野の植木文化」>明治期で以下の文献を元に紹介したように、小金井でも植木栽培の萌芽は、樹木などの生産販売業者との結びつきにあったようです。

<東京農試研報より、部分転載>(太字、赤字は本サイトで強調)

三多摩の植木栽培は、明治10年前後に現在の調布市付近で始められたが、やがて府中、小金井、国分寺、立川へと武蔵野台地の西郊へ拡大をしてきた。これらの植木栽培の当初の姿を見ると、まず植木導入の契機は、山林樹苗(スギ、ヒノキ、マツ)、養蚕桑苗、食用または鑑賞用果樹苗(ナシ、カキ、モモ、クリ等)の生産販売者と結びつき、それらの経営技術のなかで植木苗が取り扱われることから始まった。

<転載、以上>

それでは、小金井での明治期以前から、明治期に至るこうした樹木、桑、果樹の生産販売の背景が重要な意味を持ってきます。

【農業生産物の背景】
こうした中で一番古くからの農業生産物は、江戸時代からの「クリ」だったようです。但し、此の江戸から明治期の小金井の農業はその規模も小さく、特用作物として、いくつかの作物のみの需要から、農業生産が行われたようです。此のことも含め、詳細は、以下の「小金井市誌」などからの別章での「明治期の小金井の農業生産」や「栗の生産」をご覧ください。

その他には、「茶」「桑」も同様の背景から、この時期の農業生産の背景から、栽培が進められたようです。この詳細も以下の項目をご参照ください。

【樹木生産の背景】
樹木は、防風的な屋敷林の他、富裕層の庭園の庭木などとしても需要も多かったようです。明治期の貫井南町から前原町の国分寺崖線に誕生した多くの財界人の別邸と庭園やこの需要と無関係ではなかったようです。これらも、以下のリンクをご参照ください。


◆明治期の小金井の農業生産規模については、
◆江戸時代からの「くり」生産については、こちらから。
◆「お茶」「果実」の生産の背景となる茶の木や果樹の需要については、
◆養蚕業の背景としての「桑の木」の苗木などの生産については、
◆小金井、国分寺崖線に登場した明治後期の富裕層の邸宅、別邸の庭づくりについては、こちらから。

<この項、作成中>
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