Wikipediaより転載:
庭師
日本では古くは苑池を管理する園池司などの管制や明治の開拓使が園芸師として外国人を雇っていることが知られていますが、庭を施工する者の意味での「庭師」という意味と語は江戸時代に定着したものです。
ほかに庭を造る者の呼び名は他に平安時代末期からの「石立僧」や室町時代の善阿弥など「山水河原者」があり、実際に庭を造る人物の身分が呼び名に現れています。
室町以降の枯山水などの試みは広く行われるようになっていきますが、これは禅宗の影響を受け雪舟、夢窓疎石のような「石立僧」が台頭していったことによります。現在でも深谷光軌、枡野俊明など僧侶が作庭家となるケースは多く見られます。
江戸期は回遊式庭園の形式が発達し、時の徳川幕府は作庭責任者の将軍家御庭師とともに御用庭師にあたる御庭掛などを定め、庭園管理に務めさせています。江戸期には、貞観園改修に参画した幕府のお抱え庭師であった九段仁右衛門や藤井友之進、縮景園築造に呼ばれた京都からの庭師清水七郎右衛門、清水園(新発田藩)に関わった江戸幕府お抱え庭師縣宗知、宮良殿内の和風枯山水庭園を作庭した首里の庭師城間親雲上などがいました。駒込には江戸城内の庭師もつとめた植木屋伊藤家などがありました。
近代からは植木職人や樹木や園芸種を育てる農家が屋号をもって建設業、造園業や石材業を営むようになっていきますが、この中で小川治兵衛の植治など、今日にも残る老舗といわれる植木商や造園業者に発展したものや出入り業で家業を継いで発展したものが多く、また戦前ごろから大学卒の学士などが修行し独立するケースもみられました。近代期では、大河内山荘を築造した広瀬利兵衛、殿ヶ谷戸庭園を築造した仙石、自らの手で合浦公園造成を開始した旧弘前藩庭師の水原衛作、迎賓館を築造した佐野藤右衛門、岩城亘太郎、柴又帝釈天邃渓園を築造した向島の庭師永井楽山などがいます。
現在では幾多の名園は企業や公共団体が管理するものが主流を占め、中根金作のように京都府など自治体の技師や文化庁や環境省など国の技官として任用されるケースもあります。
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庭を作る人々は、時代とともに変化してきているようです。
この章では、
時代とともに移り変わっていった作庭を担った人々にスポットを当てていきたいと考えています。