庭というものが造られるのは、はっきりと資料に見られる平安時代からの庭づくりに担い手は、僧侶だったようです。もちろん、最近の考古学発見からは、もっと時代を遡ることもできそうですが、本章では、平安時代から、はじめてみたいと思います。

石立僧

石庭を自ら造った僧を「石立僧」と呼んだようです。
「夢窓国師(疎石)」は、その始祖といわれています。77歳まで生き、なんと7代に及ぶ天皇・上皇から国師号を賜り、さらに足利尊氏の政治顧問を担当し、1万人を超える弟子を育てたといわれる夢窓疎石とはどんな人物だったのでしょう。

Wikipediaより転載:
夢窓疎石
(むそう そせき、道号が夢窓、法諱が疎石、建治元年(1275年) - 観応2年/正平6年9月30日(1351年10月20日))は、鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧。七朝帝師。父は佐々木朝綱、母は北条政村の娘。

伊勢国(三重県)出身。幼少時に出家し、母方の一族の争いで甲斐国(山梨県)に移住する。1283年に市川の天台宗寺院平塩寺に入門して空阿に師事し、真言宗や天台宗などを学ぶ。1292年に奈良の東大寺で受戒する。京都は建仁寺の無隠円範に禅宗を学ぶ。鎌倉へ赴き、円覚寺の桃渓徳悟、1299年には建長寺の一山一寧のもとで首座を勤めるも嗣法には及ばず、1303年に鎌倉万寿寺の高峰顕日に禅宗を学び、1305年には浄智寺で印可を受ける。

応長元年(1311年)には、甲斐国牧丘の龍山庵(浄居寺)に一時隠棲する。西遊して美濃国に虎渓山永保寺を開き、元徳2年(1330年)には甲斐守護の二階堂貞藤に招かれ牧庄内に恵林寺を創建し、鎌倉中期の渡来禅僧蘭渓道隆以来になる甲斐の教化に務めた。また、土佐国・吸江庵、上総国・退耕庵、相模国など各地の寺庵に滞在している。

1325年には後醍醐天皇の要望により上洛、勅願禅寺である南禅寺の住持となる。翌1326年には北条高時に招かれ、伊勢国で善応寺を開いた後に鎌倉へ赴き、円覚寺に滞在。高時や北条貞顕からの信仰を得る。1330年には甲斐に恵林寺を開き、1333年に鎌倉幕府が滅亡すると、建武の新政を開始した後醍醐天皇に招かれて上洛、南禅寺に再住し、臨川寺・西芳寺の開山にも迎えられ、国師号を授けられた。

建武政権から離反した足利尊氏や弟の足利直義らは北朝を擁立して京都室町に武家政権(室町幕府)を設立する。夢窓は足利家とも縁があり、足利家の内紛である観応の擾乱では調停も行い、北朝方の公家や武士が帰依する。尊氏は後醍醐天皇らの菩提を弔うため、疎石の勧めで全国に安国寺を建立し、利生塔を設置した。また、京都嵯峨野に天龍寺を建立し、その開山となった。その建設資金調達のため1342年に天龍寺船の派遣を献策し、尊氏は資金を得ることができた。

生涯にわたり、夢窓国師・正覚国師・心宗国師・普済国師・玄猷国師・仏統国師・大円国師と7度にわたり国師号を歴代天皇から賜与され、七朝帝師とも称される。

1351年に死去、享年76。
<以上転載内容>

その足取りは、後醍醐天皇に見出され、足利政権とともに育ったという経歴のようです。