【開拓使とは】<Wikipediaより、転載>
開拓使(かいたくし)は、北方開拓のために明治2年(1869年)7月8日から明治15年(1882年)2月8日まで置かれた日本の官庁である。
樺太開拓使が置かれた明治3年(1870年)2月13日から明治4年(1871年)8月7日までは、北海道開拓使と称した。開拓使設置前の北海道行政は箱館府(箱館県)が行なっていた。開拓使の廃止後は札幌県・函館県・根室県が設立された。
【歴史】
「使」という名称は、律令制の下で使用された職名であり、太政官などとともに明治になって再度使われた。古代では臨時の独自な任務をこなした(令外官を参照)。 明治政府は中央・地方官制に頼らず、国家権力の独自の政策、つまり、「蝦夷地之儀ハ皇国ノ北門」という認識であり、ロシアに対する危機感とともに開拓自身が近代国家の任務と考えられ、開拓のための臨時の地方行政機関であった。
【鍋島直正から東久世通禧の時代】
開拓使は、省と同格の中央官庁の1つである。北方開拓を重視する政府の姿勢の表れだが、初めの数年は力不足で、内実が伴いはじめるのは明治4年(1871年)からであった。
開拓使の初代長官には、旧幕時代から北方の重要性を説いていた佐賀藩主鍋島直正が就任したが、彼は実務にとりかかる前に辞任した。
東久世通禧が後を引き継ぎ、部下の判官とともに明治2年(1869年)9月に北海道に向かった。
箱館府が置かれていた箱館(函館)は旧・蝦夷地の人口・産業の中心であったが、位置が南に偏りすぎているため、北海道の中央部に本庁を設けることになっていた。
長官の赴任に同行した佐賀藩士島義勇首席判官は、銭函(現小樽市銭函)に開拓使仮役所を開設し、札幌で市街の設計と庁舎の建設を始めた。
のちに「北海道開拓の父」とも呼ばれた島の計画は壮大であったが、厳冬の中で予算を急激に消費したこと等が理由で長官と対立し、志半ばで解任された。
代わって赴いた岩村通俊判官の下で札幌の建設が続けられ、明治4年(1871年)5月に開拓使庁が札幌に移った。
開拓使の発足当時、中央政府の財政基盤は弱く、北海道の全域を統治する余力はなかった。そのため諸藩や団体・個人に呼びかけて北海道を分領し開拓させた。分領支配の実績は各地各様であったが、経験不足から低調な所が多かった。
明治4年(1871年)8月20日に分領支配は廃止され、開拓使が館県(旧松前藩領)を除く全域を直轄統治することになった。
【黒田清隆の時代】
樺太では、箱館府の時代から岡本監輔が統治の任にあたっていた。兵士と移民を送りこむロシアに対し、日本が劣勢に立たされていることに強い危機感を抱いた政府は、明治3年(1870年)に樺太開拓使を設置し、黒田清隆を開拓使次官にして樺太専務を命じた。
樺太を視察した黒田は「現状では樺太は3年もたない」という深刻な報告を行ない、対抗する国力を充実させるために北海道の開拓に力を入れるべきだと論じた。
彼の建議に従い、明治4年(1871年)8月19日に10年間1,000万円をもって総額とするという大規模予算計画、いわゆる開拓使十年計画が決定された。
明治4年(1871年)10月に東久世長官が辞職すると、黒田が次官のまま、東京にあって開拓使の長となった。
明治5年(1872年)10月、旧館県であった渡島国に属する福島郡・津軽郡・檜山郡・爾志郡の4郡が青森県から開拓使に移管。
黒田は明治7年(1874年)に長官となったが、北海道に赴任せずに東京から指示を出す態勢をとった。黒田は米国人ホーレス・ケプロンらの御雇外国人を招いて政策の助言と技術の伝習を行わせた。<転載、以上>
どうやら、明治政府は、ロシアの脅威に「開拓使」をしてあたらせると独立した組織として「開拓使」を産んだようです。その指揮をとり、米国からの技術移入(同時に苗木、種輸入)したのが黒田清隆のようです。
次には、実際の開拓使以外で日本の農業を振興させていた組織も当然ありました。しかし、維新の混乱は、その主役を決めかねていたようです。以下の明治の農学史にその変化を観ます。明治の農業史に当時の欧米からの樹木の種苗輸入を見る以下にWikipediaにある「農業」の一項目「農業史」があり、その中の明治初期の農業開拓の事情が掲載されています。その部分を以下に転載します。<Wikipediaより、転載>
日本の農学史
日本では、明治3年9月、民部省に勧農局が置かれ、その三カ月後名を開墾局と改められ、民部省が農学校を設立すること、外国人を雇うこと、度器具や種苗を米国から購入することなど半年の間に太政官に上申し、米人一名は上申の翌月雇い入れられた。ところが農学校設立上申は太政官に認められるが、実現はしなかった。
明治4年4月、開墾局ほ勧業局と名を変えてさらに陣容を整えたが、その夏には民部省が廃止され、大蔵省に移されて勧業寮、それも十三日目に変更され勧農寮という名に落着いた。わずか二カ月の問に五つの名を持ったわけであるが、さらに翌年には勧業寮を廃止、その事務は租税寮勧農課で担当することになった。
大蔵省は農事の改良を担当した明治4年のうちに、駒場に牧畜試験場を開き、米国から輸入した器具を用いて霞ヶ関で西洋の穀類や野菜の栽培を始めている。
その後大蔵省勧業寮の仕事はすべてその年11月に設置された内務省の勧業寮に引きつがれた。
内務卿は帰国後ただちに西郷隆盛らの征韓論をつぶしたばかりの大久保利通である。後に内藤新宿試験場(現在の新宿御苑)となる土地、江戸時代以来の内藤家(当主頼直)の邸地九万八千坪を九千五百円、千駄ヶ谷、新宿地内の土地八万坪を二万一千円、合計17万8千坪(59ヘクタール弱)で購入、内藤家の土地よりも農地や民家のあった敷地の方が高値だったという。
一方、1871年(明治4年)開拓使次官黒田清隆がアメリカ合衆国よりホーレス・ケプロン他3名のお雇い外国人を連れ帰国、ケプロン等の進言を受け高等農業教育の動きが始まる。翌年の1872年(明治5年)には東京・芝に開拓使仮学校が開設される。のち1875年(明治8年)に開校する札幌農学校である。
農学分野の高等教育機関として明治の学制改革初期に登場するのは、この札幌農学校(明治9年開設)と、駒場農学校(明治11年開設)があげられる。
●札幌農学校は、先にあるとおり北海道開拓使顧問となったケプロン(Capron、アメリカ農務長官)の提言に基づき、開拓事業を進めるための基本的機関の一つとして設けられるが、アメリカ西部開拓に範を求めて、マサチューセッツ (Massacbusetts) 農科大学学長のクラーク博士 (Clark) を教頭にして発足した。札幌農学校は予備科三年本科四年で構成され、農学の他に化学、数学、物理学などまで、自然科学の基礎を幅広く授けている。
●駒場農学校は明治7年の議決を受けて翌年の明治8年、内藤新宿試験場が大久保利通の下に置かれて明治10年、試験場内に「農学修学場」が設けられることに端を発する。
近代農業への政府の意欲は、もう一つの試験場に現れている。明治4年に設置された開拓使の青山試験場で、三園に分れ、現在の青山学院大学のあたり二号地が園芸試験地、青山通りを隔てた二号地は穀物など、日赤病院付近の一三号地が畜産のために充てられた。
この試験場は、明治15年頃までに北海道に移るが、早くから米人教師が指導に当っていたという。
内務省勧業寮では1874年(明治7年)1月、牧場樹芸の二組がおかれ、3月、農事修学場を設置することとなり、4月には前の二掛に加えて製茶、農兵、農学の諸掛が置かれた。また前述の東京内藤新宿に勧業寮新宿支庁が置かれ、事業はさらに拡がりをみせる。支庁の目的は、「広く内外の植物を集めて、その効用、栽培の良否適否、害虫駆除の方法などを研究し、良種子を輸入し一冬府県に分って試験させ、民間にも希望があれば分ける」と言うような趣旨であった。さらにこの勧業寮新宿支庁内に設置していた内務省勧業寮内藤新宿出張所に蚕業試験掛と農事修学場を設立し修学場に獣医学、農学、農芸化学と農学予科、農学試業科等の教師を海外より招くことを議決した。
同年10月、新宿試験場内には農業博物館が完成。建物の詳細は不明であるが、種子や材木の見本、肥料、紙などの外に骨格標本、鉱物、土壌などもあったらしく、農業や動植物などの書籍や辞書に混じって青菜園まであったらしい。博物館のできた翌年にはその周囲に植物分類園が計画されていたようであるが、そのころ試験場内の植物は2163種もあったということなので、ある程度の分類見本園も造ることは可能であった。のちには整備が進み見学者も多くなったようで、縦覧規則が明治八年五月に定められる。当時、試験場の畑は、水田、穀類畑、成業園など七園に分れていたが、さらに桑畑、茶園などが加わり、明治10年には3150種の植物があった。
多くの植物は種子を欧米から買入れたほか、もっと前の旅行者が買ってきていたもの、ウィーン万国博覧会から博覧会事務局に持ち帰ったもの、清国まで出張して探してきたものなどさまざまで、疏菜の各種の種子や果樹苗などのほかに、ヒマラヤシダー、ラクウショウ、アメリカキササゲなど造園樹木の種子もあり、現在も残る大木の中にはこの頃の種子に由来するらしい。
明治8年には外国果樹の実るものもあり、試作繁殖した苗は、リンゴが青森県へ、オリーブが小豆島に送られたほか110平方メートルはどの西洋式温室も完成する。これは開拓使青山試験場の温室とともに日本の挫什式温室の先駆けをなすものである。
この間農学修学場は本格的な農学の専門教育機関「農学校」として設立することが決まり、修学場農学係は第六課と改められて課長には田中芳男をすえ、富田禎次郎が副長となった。
<転載、以上>
明治3〜4年には、外交的にもイギリス一辺倒だったものが、英米間の外交問題も含め、日本にも米国への傾倒が観られた時期でもありました。「開拓使=北海道開拓による欧米の技術移入による農業振興」という目的のために黒田清隆が伊藤博文とともに米国に渡り、明治4年のお雇い外国人として米国より招聘したホーレス・ケプロン等によって、この開拓使は進行していきます。以下では、これら外国人たちの背景と活躍、米国農業技術の移入の経緯を追ってみます。【ホーレス・ケプロンとは】
ホーレス・ケプロンは、マサチューセッツ州の豪農の家に生まれ南北戦争に北軍義勇兵として従軍後、アメリカ合衆国政府で農務局長となった人物で、1871年、渡米していた黒田清隆に懇願され、職を辞し、同年7月訪日。開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問となったことがわかっています。
当時、北海道に渡る準備として、東京府内に開拓使宮園(三ヶ所)を開き、輸入した各種の果樹や野菜、樹木を栽培試験しました。これが上記の青山開拓使宮園です。この栽培を指揮したのが、ケプロンにより選ばれたルイス・ベーマーというドイツ系アメリカ人の園芸技師でした。
このルイス・ベーマーについては、以下に詳細をご紹介します。この実宮園と内藤新宿試験場との関わりの詳細は、再度、後日文献を調べてみたいと思います。
【ルイス・ベーマーについて】<Wikipediaより転載>
ルイス・ベーマー(Louis Boehmer, 1843年5月30日 - 1896年7月29日)は、明治初期のお雇い外国人(ドイツ系アメリカ人)。開拓使に雇用され10年の長きに亘りリンゴなどの果樹栽培やビール用ホップの自給化、各種植物の生育指導などで北海道の近代農業発展に貢献した。ドイツ北部・ハンブルク近郊のリューネブルク生まれ。
【経歴】
リューネブルク市内のギムナジウム卒業後、宮廷庭師の下で修業を積みハノーファーの王室造園所などに勤務し王室の庭園への就職を目指していたが、1867年普墺戦争勃発による戦渦を避けてアメリカに渡り、ニュージャージーを振り出しに上級園芸家として各地の造園業者の下で働いた後、定住を決意しニューヨーク州ロチェスターのマウント・ホープ・ナーセリー(1840−1918)に就職した。
1871年(明治4年)1月に渡米した開拓使次官の黒田清隆の要請に応えて開拓使顧問に就いたホーレス・ケプロンは知人の園芸商ピーター・ヘンダーソンが推薦するルイス・ベーマーを果樹園芸、植物生育分野の技術者として雇用した。1872年(明治5年)来日後開拓使で北海道の西洋農業化に貢献した。
◆東京青山官園へ
開拓使の草木培養方として雇われたルイス・ベーマーはサンフランシスコから船名 "Japan" に乗り1872年3月26日(明治5年2月18日)横浜に着いた。
東京青山の官園が勤務地であったが、この官園は外国(主にアメリカ)から輸入した家畜や草木を一旦根付かせその後北海道へ移送する為の中継基地の役割を担っていた。 10万坪を超える広大な官園には、小麦や大麦、豆類などの雑穀やアスパラガス、人参、玉葱、馬鈴薯などの野菜、リンゴやサクランボ、ブドウ、梨、桃といった果樹がたくさん植えられた。ルイス・ベーマーは農作物を主体とした第一・第二官園(現在の青山学院大学の一帯)の主任として指導に当たっていたが、ベーマー着任の1年後に牛や馬、豚、羊など家畜の飼育を行う第三官園の主任としてアメリカらやってきたエドウィン・ダンと交友を深めた。
ケプロンが "government farm" と呼んだ官園は外国の農業技術を導入するための施設として、ルイス・ベーマー等の外国人指導者による技術者養成をはじめ、試験や実験、啓蒙や普及といった活動も行われていた。そこに学んだのは主に農業現術生徒と呼ばれる若者であった。彼らは農家の出身ではなく、つい数年前まで各藩で将来を嘱望されて文武に励んでいた若者達で、明治新政府によって全国から集められた。
例えば明治5年(1872年)第一期生として入園した中田常太郎(当時30歳)は、東北戊辰戦争に敗れて捕らえられ北海道に移送された後明治4年に余市に入植した旧会津藩の武士の一人であったが、彼の様に逆賊と呼ばれた無念な思いを断ち切り新政府の農業研修制度に応募する若者も多かった。 ベーマーはこうした現術生徒を指導しながら、アメリカから持ち込み一旦青山官園に仮植されたリンゴの苗木を札幌や七重村(現七飯町)の官園へ移送する作業に取り掛かった。
◆札幌へ転勤
実践的指導に優れていたベーマーは1876年(明治9年)札幌官園への移動を命じられ、エドウィン・ダンと共に同年5月22日品川から玄武丸に乗り出帆した。 同年7月には米国マサチューセッツ農科大学を一次休職したウイリアム・スミス・クラークが札幌農学校(北海道大学の前身)教頭に就任した。
【業績】
◆北海道開拓使
1876年(明治9年)9月国内で初の官営ビール工場である開拓使麦酒醸造所(後のサッポロビール)が札幌に開業した。開拓使はドイツで醸造技術を習得した中川清兵衛(1848−1916)を主任技師に迎えて開業したが、ビールの味の決め手となるホップの栽培をベーマーが実現しなければ叶わなかったことである。現在の札幌駅前から時計台の当たりまでの一帯は広大なホップ畑であった。 また開拓使は葡萄酒醸造所の開設も同時に行ったが、葡萄の品種選定や葡萄園作りはベーマーの主要な任務であった。
札幌官園に着任したベーマーは早速に本格的な洋風温室を設計し、1876年(明治9年)11月、ガラス張り・ボイラー付きの豪華な温室が完成した。その後温室は一般にも公開され多くの市民に親しまれたが1878年(明治11年)2月にクラークの希望を受け札幌農学校に移管され専ら学術研究に供される事となり、その後1886年(明治19年)には現在の北大植物面内に移築された。 優れた園芸家でもあるベーマーは、札幌で最初の公園となる偕楽園内に和洋折衷の庭園建設を指導しているが、これが現存する清華亭の前庭である。
ベーマーの功績の中でも最も高く評価されるのはリンゴの生育指導であったが、1875年(明治8年)から全道に配布された苗木も着実に成長し、1879年(明治12年)には余市や札幌などからリンゴの初なりの報告が相次いでなされた。当時のリンゴは「六十六号」や「二十四号」など番号で呼ばれていたが、この番号は東京から札幌に送る際に品種名の代わりに付けられた数字で、ベーマーによって作られた「西洋果樹種類簿」によって管理されていた。 ちなみに1879年(明治12年)余市で結実された俗称「四十九号」は後に「国光」と命名されているが、最初の生産者の金子安蔵は1874年(明治7年)現術生徒(当時24歳)になりベーマーやダンから直接指導を受けた旧会津藩出身者である。
1880年(明治13年)、翌年の明治天皇の札幌訪問に備えて宿舎となる豊平館の建設工事が現在の札幌テレビ塔周辺で始まったが、この豊平館の庭の設計もベーマーによるものである。この時この庭園工事を手伝った上島正(1838−1919)は、ベーマーの指導を受けて花菖蒲の人工交配に成功し「我邦に於ける花卉媒助の鼻祖」と称され、その技術を様々な花卉の採種に応用して巨利をえた。上島の庭園(東皐園)で作られた花菖蒲はその後アメリカに輸出される事になるが、1882年(明治15年)に開拓使廃止によって横浜に移り園芸種の輸出入業を営む事となるベーマーがそれを支えた事が容易に想像される。
こうして、野菜や花卉、果樹や穀類など多くの有用な作物を短期間で北海道に定着させ、その後の発展の基礎を築いたルイス・ベーマーの業績は賞賛されて余りあるものがある。
◆横浜ベーマー商会
1882年(明治15年)開拓使の廃止にともないベーマーは同年3月12日来道時と同じ玄武丸で函館を後にした。同年4月30日をもって開拓使との契約は満了したが、就任期間10年3ヶ月はお雇い外国人としては2番目に長いものであった。この間ベーマーが妻帯していたという記録は残されていない。同年4月27日、横浜のブラフ28番(番地)に転居届けを出したベーマーはここで輸出入園芸業のベーマー商会を設立した。
ベーマーは本格的温室を建設し日本産植物の輸出と並行して西洋花卉の輸入培養を行うとともに、日本人の鈴木卯兵衛を仕入主任(番頭)に雇い、百合根貿易に力を注いだ。アメリカ、カナダ、ドイツ、イギリスと次々に販路は拡大されベーマー商会は大いに潤った。当時生糸や茶など代表的な産品は外国商館を経なければ輸出できず自ずと日本側の利益は薄いものであったが、鈴木卯兵衛等は会社(後の横浜植木株式会社)を起こし、ベーマー商会の名義を活用してアメリカへの百合根輸出を始めた。 関税自主権のなかったこの時代に直貿易に近い形で日本側が厚い利益を取れたのは、日本贔屓で情義に厚いベーマーの存在が大きかった。
横浜に移り住んで12年、園芸商として成功を遂げたベーマーであったが、体調を崩しドイツで療養することとなり、2年前から共同経営者になっていたアルフレッド・ウンガーにベーマー商会を譲り、1894年10月13日英国船Ancona号で離日した。そして1896年7月29日、療養地ブラッケンブルクで53年の生涯を閉じた。<転載、以上>
明治4年頃、東京府に置かれた官園には、多くのアイヌが連れてこられ、働かさせていたようです。このことは、本サイトの少数先住民族の項目でもご紹介する予定です。この関連の研究文献「開拓使仮学校附属北海道土人教育所と開拓使官園へのアイヌの強制就学に関する研究(廣瀬健一郎著)」に当時の官園の地図があるので、以下にご紹介します。【東京府内開拓使官園の地図】
以下に「官園-開拓使」についての情報を転載します。<Wikipediaより、転載>
官園(かんえん)は、開拓使が北海道および東京府に設置した、農業に関する試験・普及機関である。
【概要】
明治維新以降、さまざまな分野で海外の技術を導入することとなったが、北海道の開拓もまた例外ではなかった。開拓の拡大は農業がその先鋭となったが、本州の平地とは異なる亜寒帯に属する北海道では用いる技術が異なることから、アメリカやヨーロッパの技術が導入され、試験されることとなった。この試験を実施する場所を、官園と通称した。
最も早く試験が始まったのは、すでに一定の開拓が進んでいた北海道南部の函館周辺であった。1870年に渡島国亀田郡七重村に七重官園(ななえかんえん)が設置された。これは、プロシア人ガルトネルの租借地を買い戻したいわゆる「ガルトネル開墾条約事件」の跡地に設置された。家畜、牧草、農業機械などを欧米より導入し、実証・展示に及んだ。1875年には水稲試作、1877年からは水力製粉、1880年からは醸造、畜産加工や鮭の人工孵化まで手がけることとなった。
一方、開拓使教師(お雇い外国人)であったホーレス・ケプロンは、1871年にその職に就任すると直ちに、海外からの種苗や種畜の調達、気候の解析など、精力的に農業に関する建言を行った。その中で、将来首府となるであろう札幌に官園を設けることを提案し、1871年に設置された御手作畑を含む地域を1873年に札幌官園(さっぽろかんえん)と定めた。また開拓次官であった黒田清隆は、これら種苗や種畜を北海道に持ち込む前に馴化させるため、東京の大名屋敷跡にその地を求め、1871年に東京官園(とうきょうかんえん)を設置し、技術指導者としてルイス・ベーマーやエドウィン・ダンが招かれた。その後、北海道東部の根室には、1874年に根室官園(ねむろかんえん)が設置され、それぞれの地域実情に合わせた試験と実証を積み重ねた。
官園では、開拓の現場において西洋の農業技術を普及するための技術者である現術生徒や、研修を受けて村で洋式農業を実践する農業修業人の育成も担った。これら生徒や修業人は、試験の成果を普及するのに大きな役割を果たした。
官園は、1882年の開拓使廃止と3県分治により縮小に向かう。北海道の農業試験研究が次の段階へ進むのは、1886年に北海道庁が設置され、開拓が沿海から内陸に及び忠別農作試験場や北海道農事試験場などが設立される時期を待つこととなる。
【沿革】
<七重官園>
1870年 - 開拓使により、亀田郡七重村のガルトネル開墾条約事件の跡地に、開墾場が設置される。
1872年 - 勧業課試験場に改称する。
1873年 - 七重開墾場と命名され、東京官園所属となる。牧牛場を増設する。
1874年 - 函館支庁所属に復す。
1875年 - 七重農業試験場に改称する。大野養蚕場および牧羊場を付設する。水田の試作を始める。
1876年 - 七重勧業課試験場に改称する。
1878年 - 七重勧業試験場に改称する。
1879年 - 七飯勧業試験場に改称し、程なく七重勧業試験場に復す。
1880年 - 醸造、加工、鮭の人工孵化、昆布養殖などの試験を開始する。
1882年 - 開拓使の廃止により、農商務省の所管となる。七重農業場に改称する。
1883年 - 北海道事業管理局の所管となり、七重農工事務所となる。
1884年 - 牧羊場を廃止する。
1886年 - 北海道庁の所管となり、農業所の種芸部門を縮小する。
1887年 - 大野養蚕場を民間に払い下げる。
1890年 - 育種園を廃し、七重種馬場となる。
1893年 - 真駒内種畜場七重分場となる。亀田稲作試験場が併置される。
1894年 - 廃止される。
<札幌官園>
1871年 - 開拓使により札幌空知通り(現北6条、偕楽園に隣接)に、御手作畑が設置される。
1873年 - 第1官園(偕楽園通新墾地)、第2官園(偕楽園試験場)に改称する。
1874年 - 仮牧場を設ける。
1875年 - 開拓使本庁の西側に新たに試験地を増設する。
1876年 - 札幌村に水田を造成する。仮牧場の牛を新設した真駒内牧牛場に移す。山鼻村に札幌牧羊場、札幌村に札幌養豚場、漁村に漁村牧場を設ける。札幌農学校が設立され、第1官園の大部分をその農場に充てる。
1877年 - 札幌勧業試験場に改称する。
1878年 - 札幌育種場に改称する。場内に水田を造成する。漁村牧場を真駒内牧牛場の付属とする。
1882年 - 開拓使の廃止により、農商務省の所管となる。札幌養豚場を廃し、札幌育種場に付属する。
1883年 - 北海道事業管理局札幌農業事務所の所管となる。
1886年 - 北海道庁の所管となる。水稲試作を中止し、林木は札幌県設置の円山養樹園に移す。
1887年 - 札幌育種場を廃止する。
1889年 - 札幌牧羊場を廃止する。
<東京官園>
1871年 - 開拓使により東京府青山南町に1号(松平頼英邸跡)、青山北町に2号(稲葉正邦邸跡)、麻布新笄町に3号(堀田正倫邸跡)の官園が設置される。
1875年 - 東京農事試験所に改称される。
1880年 - 勧業試験場に改称される。
1881年 - 第1、第2試験場を廃止する。
1882年 - 第3試験場を廃止する。
<根室官園>
1874年 - 開拓使により、根室郊外の萌様(もやさん)および穂香(ほにおい)に、試芸園を開設する。
1875年 - 萌様に牧場を設け、開拓使牧畜場に改称する。
1878年 - 厚岸に養蚕場を設ける。
1882年 - 開拓使の廃止により、牧畜場を根室牧場に改称する。
1883年 - 北海道事業管理局根室農工事務所の所管となる。
1886年 - 北海道庁の所管となる。根室牧場を根室牧畜場に改称する。穂香種芸試験場を屯田兵本部に移す。
1887年 - 根室牧場を民間に払い下げる。
<転載、以上>
<この項 了>