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前の項目にもあったように「果樹栽培」は、海外から持ち込まれた苗や種などを開拓使官園で試験的に栽培し、日本の風土での育成、栽培を試験してから、国内への導入を図ったようです。以下に転載した「東京農業史 第4節 果樹に関する試験研究」にもそうした記述が見られます。

<同書より、転載>

(前略)
明治政府は、明治元年に初めてアメリカから各種果樹苗を輸入、明治4年に東京に開拓使官園を設け、本格的に試作し、明治6年には民間に配布し、栽培を奨励している。
そして、明治末期頃、この中で日本の風土に適し、国民の好みに適した米国種ブドウ、中国中部系モモ(“水蜜桃”)、サクランボなどが、在来果樹とともに盛んに栽培が始まった。
明治5〜6年に導入されたブドウの“デラウェア”は、明治政府の開拓使により、良品と報告され、
東京在住の小沢善平を通じて、山梨に分譲された。

これが山梨での“デラウェア”栽培の始まりとなり、全国に普及した。また、明治21年には、文京区本郷の博学者 田中芳男が大日本農会にビワ“田中”について公表しておる、当時、東京は、果樹情報の発信地的役割をしていたといえる。

明治26年以降に、多摩川のなし、南多摩の生がきの市場出荷の記録があることから、東京では、在来果樹の栽培が本格的な果樹栽培の始まりと思われる。

<転載、以上>

そして、明治33年(1900年)4月5日に東京府の農事試験場「中野」が豊多摩郡中野町大字中野字谷戸(現中野区中央)に設置され、この果樹栽培の試作などが受け継がれることとなったようだ。以下のその続きを転載します。

<転載、部分>

このため、場では、将来生産者に普及すべき、果樹の種類、品種を選定する目的で、主として各種果樹類の試作を行った(第一分場(現日野市)果樹及草花園8畝5歩7合、第二分場(旧金町、現葛飾区)果樹園並びに花卉園六畝歩)。

<転載、以上>

実際にこれらの分場で試験された果樹の詳細は、近代デジタルライブラリーにある「東京府農事試験場一覧」から、以降の章「明治後期の果樹栽培」で順次、明治中期の項目でご紹介していく予定です。
この明治初期の項では、上記に記述した明治初期にアメリカ、中国から輸入され、官園で栽培された後、民間に配布された苗を調べていきます。
この官園については、レファレンス協同データベースでの項目(こちら)に官園の文献検索があり、“「東京市史稿 遊園篇 第4 / 東京市‖編 / 東京市 , 1932.7 /0920/T727/T2-12-4」の「開拓使事蹟」(p.272-294)では、資料7などより、官園(後に農業試験場と改称)の番地や面積、栽植した苗木名、種子の収穫量等について記載されている。”としています。

次の章以降でこの文献からの情報を調べます。さらに特に取り上げられている葡萄の“デラウェア種”についても、より詳しくワインや山梨関連の文献を調べたものを以下の項で紹介する予定です。


<この項、了>
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