【山梨の葡萄栽培と小沢善平】

官園から、葡萄酒醸造と食用葡萄の両側面で山梨への配布されたと思われる“デラウェア種”。その立役者と記述された小沢善平は、山梨のブドウ栽培の父ともいわれる存在だったようです。
山梨県ワインセンターが情報提供する「山梨ワイン百科」からの小沢氏についての情報を以下に転載します。


<転載部分>

明治のひとケタから20年代にかけて殖産興業政策の花形・ブドウの栽培は北海道から九州にいたる全国津々浦々に普及した。民間人でブドウの良質な苗木を育てて普及した甲州人がいる。小沢善平である。

ワイン史研究の浅井昭吾氏か探し出した小沢善平の自叙「撰種園開園の雑説」が、善平の生い立ちと功績をしのぶ数少ない手がかりになっている。
 

善平は勝沼町の綿塚に天保11年に生まれ、明治37年まで(1840〜1904)生きた人で、20歳前後の時、ちょうど横浜港が開かれたばかりで、善平は綿塚から甲州産の生糸荷を担いで、外国商人に売りさばきに行き、とうとう横浜に住みつき、浜師(生糸を仕切る商人)になって活躍することになった。
 生糸と蚕種は横浜貿易の花形であった。生糸・蚕種がもてはやされたのは、ヨーロッパの養蚕地である地中海沿岸地方に蚕の微粒子病が蔓延し、絹織物業者がその原料を、東洋に求めねばならぬ 事態が持ち上がったからである。この生糸の好景気に目をつけた幕府が取締を強化、横浜をめぐる生糸商たちが苦しめられた。浜師として英語やフランス語を覚えた善平は生糸商たちの信望を得てこの難局を乗り越えようと活躍し、投獄されたりし、ついには国禁を犯して仲買商たちが集めた生糸を持って、フランスの工業都市リヨンにまで直貿易に出かけるなどの活動を続けた。

つまり日本人で生糸の直貿易をやった初めての人物でもあった。しかし当時はまだ鎖国時代であり、国法を犯したというので官憲に追われ、横浜にいたヴァン・リードの仲介で、妻子を伴いアメリカに逃れ、カリフォルニアのナパに入って開拓に従事した。桑や茶を植えて養蚕や茶業を興そうと夢見たが事業は失敗し、妻子を失ってしまう。木こりをして働く一方、夜は植物学者レレ氏の家を訪ねて、ブドウ栽培技術を習い、5カ月にしてすべてを修得した。

それにブドウ苗木の育苗の実地をすぐに習い終えたので、レレ氏は「数年かかるのをよく早くおぼえた」と称賛したという。その後、仏人スラム氏から醸造法を習い、のちに良質なぶどう酒を醸造した−と自画自賛を加えて書いている。
 やがて明治に入り、祖国日本も新政府が誕生し、諸外国との国交が重視され、明治4年岩倉具視の率いる特命全権使節団がアメリカに渡航してきた。その一行を迎え出た善平に使節団は、密航の旧罪は消滅したので、速やかに日本に帰り、アメリカで得た新知識を生かして、日本の農政や開拓行政を推進し、欧米から新種の果 菜の輸入をして貰いたいとの要請をしたのだった。
 アメリカから帰国した七年初頭、善平は東京・高輪と谷中清水町の二か所に農園を開いた。合わせて六万六千平方メートル(二万坪)あったという。高輪の農園計画のほうは失敗したが、谷中の農園には「撰種園」と命名し、西洋種のブドウの苗木、洋ナシ、リンゴ、カキ、モモ、などの苗のほか、アカシア、イブキ、ヒバ等の苗も取り寄せて、さし木、交配などを研究しながら苗木商に転身した。この道では大成功した。
 ブドウの栽培も生食用の苗木より、醸造用の苗木に力を注ぎ「ぶどう酒の盛大さを漸次、わが日本全土に移さんことを望む」と自ら書いているように、ブドウを原料とするぶどう酒が全国に普及することは貴重な米穀を原料とする日本酒の代用をはかり、国益の一助となる…という信念を抱いていたらしい。
 
なかでもアメリカから取り寄せたブドウの種類は、この撰種園から日本全国に広められた。大蔵省所轄の農事試験場、或いは開拓使庁、三田育種場などとも関係を持ち、欧米から沢山の種類を輸入して配布した。また実地伝修生を広く募集してその養成に努めた。

ブドウの育苗に自信を得た善平は明治10年に「葡萄培養法摘要」を発表、さらに12年には「葡萄培養法上・下」、13年には「葡萄培養法続編」を出版した。
 一連の研究書は、善平の体験に基づいた西洋種のブドウの苗木の特徴をよくとらえ、西洋の栽培技術をこと細かにわかりやすく翻訳した画期的な研究書となった。
 明治14年3月、第2回内国博覧会が東京・上野公園で開かれたさい、善平は農商務省から有効賞を受けている。賞状には「外国ブドウ良種ヲ移植シ接挿及ビ屈条切枝等善ク法ニ適シ以テ栽培家ニ裨益ヲ与フ」と記されている。

デラウエアは明治19年、甲州市塩山奥野田の雨宮竹輔さんが東京谷中の小沢善平のブドウ園から苗を持ち帰って繁殖させたのが始まりといわれている。
 明治7年内藤新宿試験場から出荷した苗木は次の府県に配られている。
 岩手、宮城、山形、福島、新潟、埼玉、千葉、神奈川、福井、長野、三重、滋賀、大阪、兵庫、奈良、鳥取、広島、徳島、福岡、大分、宮崎、鹿児島。
このとき、オーストリア産のサクランボ、ビワ、ナシ、アンズなども合わせて配られている。各地のブドウの苗移植の状況によると、欧州種の苗は気候風土に合わず大半が枯れてしまったという。山梨県でも最初の欧州種の移植は失敗している。

 小沢善平は終生の夢として一大ぶどう園を拓こうと企画し、明治17年ころから探索を始めて群馬県の妙義山麓についに候補地を見つけて、明治22年(1889)妙義町大字諸戸の官有地を払い下げてもらい、上毛三山の一つ妙義山の中腹に一大ぶどう園を開拓した。
 主としてアメリカ産のデラウエア、ナイヤガラ、コンコード、イザベラなどの数百種のぶどう苗を植えつけ、土壌の研究や接ぎ木の技術、肥料、気候の研究など、幅広く海外の農業技術の普及、奨励に努め、伝修生も全国から募集して世に貢献した。
 この農業技術はすべてアメリカで修得したもので、ワインの発達、普及にも貢献し、六十五歳の生涯を妙義山・山麓で閉じた。


<転載、以上>

小沢善平は、驚いたことに植木商として、成功した人物でもあったことが解ります。山梨に提供された“デラウェア”も官園のみならず、その後は、府立農事試験場や新宿御苑の試験場とも関係をもち、小沢善平が、“ナイヤガラ種”や“コンコード種”“イザベラ種”などと一緒に後年は、妙義山山麓に拠点を構え、山梨は、もとより、全国に提供していたことが解ります。その発端となった東京の農園、東京・谷中の「撰種園」は是非、調べてみたいと思います。

<この項、了>
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明治初期の果樹栽培:その2<官園にて試験栽培された輸入種苗品種>
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