【勧農とは】

時の支配政府が農業を振興、奨励する政策として、進めた農業政策をいうのが、「勧農」です。明治時代は、明治政府により、農業振興として、勧農政策が推進されました。以下にその概要をWikipediaの「勧農」カテゴリーにある「明治期の勧農政策」から、その解説部分を転載します。

<Wikipediaより、転載>

明治時代には、明治政府は、各地の有力豪農を活用して地方行政システムを構築しようとした。特に明治維新期に行われた地租改正と、田畑永代売買禁止令の廃止により寄生地主制が進展した。
1873年、征韓論がきっかけとなった政変(明治六年政変)を機に大久保利通の主導で内務省が新設されると内務省が勧農を進めた。
1881年に農商務省が新設されると、勧農政策はそちらへ移管する。

また、明治政府は蝦夷地(北海道)を直轄地とし、開拓使にそれを統括させた。明治6年(1873年)には、北方警備と開拓とを兼任させる屯田兵制を開始し、多くの移民が北海道へ渡った。

また、勧農という広い意味では、日本は、開国から第二次世界大戦後にいたるまで労働力が過剰だったために移民を送出する側にあり、諸外国(アメリカ合衆国本土、ハワイ、ブラジル、ペルー、ドミニカ共和国など)への移民の多くが現地での原野開拓に従事した。

<転載、以上>

上記の明治政府の勧農政策は、制度としては、地租改正でした。このことで、農業政策は制度としては、政府主導となり、一部の農業技術開発や海外との貿易関連が政府の役割となる一方で、農業振興は、それぞれの地方が独自に進める「地域主導」という形が進められたようです。

その中で実際に政府主導の政策として、推進したのは、「北海道開拓」と「海外移民」だったことが伺えます。以下の章では、実際に植木産業に大きな影響を与えたものとして、この大久保利通に端を発した「北海道開拓」を取り上げていきます。また、農業技術研究、開発という側面では、上記のWikipediaでは、触れられていない政府の「内務省や農商務省」以外の「宮内省」などによる活動も重要でした。そうしたコンテンツも取り上げていきます。
北海道の開拓使については、こちらのカテゴリーをご覧ください。

それぞれの地域の農業振興については、各地域の植木文化で扱っていきます。