江戸期庭師(庭園)を年代や発展に沿って、「将軍家の庭師」「大名の庭師」「商人の庭師」という順に調べていきます。
(1)江戸城の庭師
江戸城に徳川家康が入城してから後、最初の江戸城の庭師として、その名前が記述されている庭師は、「山本道勺」という庭師です。
山本道勺という庭師の名前が最初に登場するのは、寛永6年(1629年6月2日、徳川実紀)に西の丸山里御茶屋の露地工事に庭作り役としてです。寛永6年は、秀忠が大御所、将軍は、家光です。西の丸は、大御所秀忠の御殿で、その庭を担当した庭師ということになります。
文献は、徳川実紀。正確には、「台徳院御実紀巻十三」六月二日(東武実録)です。徳川秀忠<台徳院は、秀忠の戒名です>の実録で、秀忠が大御所として隠居して、江戸城の西の丸で二元政治を行うようになったのが、元和9年(1623年)ですから、寛永6年(1629年)は、その6年後の頃の記述です。その実録部分を少し長くなりますが、以下にご紹介します。
二日 永井信濃守尚仰を奉りて。西城的場曲輪及び山里口の石垣普請を助く。又山里の御茶室の露地を改造せらる。
尚政奉行し。松平宮内少輔忠雄は助役す。山本道勺に其事つかさどらしめ。持筒組百人。其他数百人をあつめ経営す。
藤堂和泉守高虎が京師の邸は。茶家宗匠とよばれたる古田織部正重勝が旧宅なれば。古田がとき設置たる石の手水鉢ありて。高虎是を献じ。又坂部三十郎広利が江戸の宅地も古田が旧宅なれば。その時よりつたへし露地の踏石共若干をとりて献ず。
以上です。
次の項では、この記述をより詳細に見、庭師として、登場する山本道勺とその時代背景。当時の将軍家、大御所の生活も含めた江戸城の庭のの実態を研究していこうと思います。又、同時にこれ以前の将軍、家康の庭と庭師についての文献も調べていこうと思います。