前項目では、秀忠以降の江戸城の庭師として、登場した「山本道勺」をご紹介しました。この人物とはどんな人物であったかを知る前にその前の将軍「徳川家康」の庭と庭師とはどのような人物だったかを調べてみようと思います。

徳川実紀の(1)には、庭師の名前はでてきません。前項で紹介した(2)でも、大御所となった秀忠の庭師(もちろん、家光の元和御殿の庭師でもあった可能性もあります)として、寛永6年に山本道勺が登場してくるだけです。徳川実実紀行(1)の前半の「東照宮御実記とその附録」(家康の実紀)にも、庭師の名前はでてきません。家康は、一体どんな庭師を雇っていたのでしょう?
普通に考えれば、家康の庭師がそのまま、秀忠の庭師になぜ、ならなかったのでしょう。
徳川実紀(1)の後半部は、天正18年からの記録で、家康の事績も記録されており、当然のように城普請の話も登場します。もし、山本道勺が家康からの庭師なら、登場していてもおかしくないはずです。でも、一切登場していません。

【家康の城普請と花畑】
次の章では、視点を変えてみましょう。

この章では、家康の庭を知るために、改めて、「庭師」という言葉に限らず、徳川実記(1)で、城普請や花畑(庭と同じ内容)が登場する箇所を読みこんでみることで、家康の庭とはなんだったのかを調べます。その庭に関わっただろう人物とは?

<この項、続く>
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