三大職人の筆頭ともいえるのが、三河島の伊藤七郎兵衛です。
その活躍を以下、「三河島郷土史」に見ていきます。

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第十節 七郎兵衛の園と平十郎の園

一万石の格式ありと称された三河島の植木屋伊藤七郎兵衛は、暮幕時代将軍家へ植木御用、或いは諸人足の御用を勤めた内の一人であり、数代に亘り植木屋七郎兵衛を襲名し、九段の斎藤彦兵衛、向島の萩原平作などと共に、江戸三大植木師と呼ばれたのである。
殊に十一代将軍家斉公の時世、文化、文政時代の所謂植木屋全盛期には、使用職人百余名と称され、番頭十余名を置き、その外、下男、下女、厄介などを凡て、奉公人の数三十余人に及んだと云ふ。寛政九年五代七郎兵衛の時、名字帯刀を救され、後ちには乗り物迄でも救されるに至った。

<転載、以上>

七郎兵衛としては、この文化、文政以前から御用植木屋であったとされています。ただ、この家斉公の時世に一気に御用植木屋のトップに躍り出たというのが実際のようです。その庭園の規模もこの郷土史によると以下のようです。

<転載、部分>

嘗て、その居宅及び庭園にあっては、豪壮善美をつくし、千二百坪を有する庭内には、梅を主とし、松桜桃李を植へ、梅は八房の梅、夫婦梅など、凡て珍しいものを栽培し、牡蠣殻を葺いた待屋、汐入の池、築山、松の木立、稲荷の祠、母屋土蔵、春日燈籠、その他諸燈籠五十余基を配置し、石井筒三ヶ所、凡ての庭石六百余箇に及び職業はとは云え、其の豪壮なる居宅や庭園は、江戸市中に有する貧乏大名の屋敷などより遥かに、善美をつくせしものであった。

<転載、以上>

その後、伊藤七郎兵衛とその家は、没落し、現在は、その地には、屋敷も庭園も跡形もありません。その当時のこの地域の雰囲気を伝えるものには、江戸時代の浮世絵が最適です。様々な絵師が描いた「日暮里」の絵にこの土地の雰囲気を味わうことができます。

次の章では、この屋敷の合った場所を地図で特定して、こうした浮世絵などでは、どの辺が描かれたのかを調べていきます。