江戸時代の三河島(日暮里)とはどのような場所だったのでしょう?
実際に伊藤七郎兵衛の屋敷や庭園の場所とその周辺を調査してみました。

まず、現在の三河島周辺の地図と当時の地図を比較して、伊藤七郎兵衛の庭園の場所を特定してみます。前出の「三河島郷土史」によると伊藤七郎兵衛の庭園は、明治29年時点では、「宮地3330番地」という地番だったようです。さらに、その場所は、その後、ゼブラ自転車の工場になったようです。ゼブラ自転車工場の地番は、ゼブラ自転車についての会社の沿革などの情報から、「西日暮里1-4-1」と特定できるので、最後の頃の庭園の場所は大体、特定できます。
これらの位置を確認できる地図「現在の地番確認できるYahooマップ」と昭和5年の「復興完成記念東京市街地」地図を以下にご紹介します。

もちろん、文化文政の頃の最盛期の庭園規模は、千二百坪といいますから、この場所から、宮地陸橋(宮地ロータリー)あたりまで広がっていたと考えられます。

<現在の西日暮里1-4-1、Yahoo地図より>



<昭和五年の復興完成記念東京市街地地図の西日暮里周辺>