浪花さくらそう会の山原氏他の指摘される室町時代の津田宗及茶会に登場する茶花としての「桜草」から、「室町時代における桜草」の一側面を発見してみたい。

「茶会とは?その背景を知る」

【資料】
「天王寺屋茶会記」(津田宗及自会記))より

天正十二年(1584)三月四日朝 因幡善浄坊 休夢

床二細口 桜草 生而圓盆
風炉 高キウハ口の釜 小板 芋頭
手水之間ニ 置
床ニ船子絵 手水之間ニかけ
花ヲイケ申候
籠ヨリ善好茶碗 金ノ合子

「先ず、天王寺屋の茶会とは何だったのかを知る」

茶会とは客を招いて作法にのっとって茶を点ててもてなし、会茶を楽しむこと、またその場をいいます。天正12年という時期に天王寺屋にて催されたこの茶会とは一体、何だったのでしょう?また、その記録としての茶会記は、どんな意味があり、どんな歴史背景や状況の中で書かれたものだったのでしょう?

先ず、時期は、3月とあり、桜草の開花がこの時代の堺(天王寺屋=津田家のその当主であり茶会を催した主人「津田宗及」の住んだ堺の町、関西地方)で3月頃だとわかります。時代は、戦国で織田信長がこの2年前の天正十年に「本能寺の変」で亡くなり、秀吉の力が一気に天下を治める方向で勢いづく時期でした。

「堺の豪商・津田宗及とその茶会とは?」
津田宗及は、堺の豪商であるとともに織田信長から秀吉へと時の頂点にあった武将の茶会を千宗易(利休)、今井宗久とともに取り仕切った茶の権威でもありました。足利将軍の庇護のもと、対明国貿易の権利を一手に握り、その後も台頭した織田信長や秀吉の庇護を受け、巨大な富を築き上げた堺の商人たちは、大量の物資や金銭を提供したことで大きな権益を彼らから得ていたのです。

茶の湯、茶会はその武家の棟梁たちにとっての文化でもあり、政治の道具としても活用されるまでになっていきました。天王寺屋茶会記もこの当時の政治、武家の勢力図や時代背景を推察する重要な文献資料として貴重な情報を現在の私たちに提供してくれています。

さて、それでは、この桜草の登場する3月4日の茶会とはいかなるものだったのでしょうか?
次の章では、その姿を浮かび上がらせることをしてみたいと思います。


【資料】
津田宗及(Wikipediaより転載)
(つだ そうぎゅう、生年不詳 - 天正19年4月20日(1591年6月11日))は、安土桃山時代の堺の商人、茶人。「天王寺屋宗及」とも。千利休、今井宗久とともに「茶湯の三大宗匠」と称せられた。名は助五郎、号は天信、幽更斎。宗達の20歳の子として、1524年生まれ。当時の寿命から60歳まで生きたとしても、1530年宗達26歳までには生まれていると圭さんして、天正10年1582年で60歳を超している。没年の9年前。宗及日記は、天正13年まで。長岡忠興()

堺南荘の豪商・天王寺屋の津田宗達(1504年-1566年)の子として生まれる。茶人武野紹鴎の子・宗瓦の門人であった父に茶道を教わる。大徳寺住持の大林宗套には禅を学び、後に天信の号を与えられる。

堺の大小路に居所を構える天王寺屋は堺でも有力商人として知られた。宗及は永禄年間には石山本願寺の下間丹後の一族と通じ、次いで堺に勢力を張った三好政康を頼みとしていたが、やがて伸長してきた織田信長に接近。1572年11月には信長が主催した京都妙覚寺での茶会に参加して接待を受けた。1573年2月3日には岐阜城で信長の名器の拝見を特に許され歓待されるまでになった。1578年、信長が堺を来訪した際には、自邸に訪問を受けるなどし、重用された。 明智光秀の茶会にも顔を出していたが、後に実権を握った豊臣秀吉にも信頼を得て茶湯者八人衆の一人として数えられ、今井宗久、千利休とともに3,000石の知行を与えられた。 1587年10月1日、豊臣秀吉が九州平定と聚楽第の造営を記念して北野天満宮で開催した大茶湯(北野大茶会)でも宗久、利休とともに茶会を行った。