三月十七日(現在の4月11日頃)

(日記の記述は、太字で記載します)
九少前よりお隆同道 珠明院善光寺如来開帳参詣

この記述にであった時は、やったという気分でした。この記述では、妻のお隆と一緒(もちろん、伴も数人引きつれています)に「珠明院」に如来開帳を詣でるという内容ですが、この珠明院は、隅田川の尾久の渡しの対岸にある沼田村にある寺なのです。当然、舟で渡っていくことになり、この春の時期の梶原村・尾久の原を体験する筈です!それでは、次にその部分をご紹介しましょう。

尾久のわたし三町ばかり先に見ゆ、向の岸は土堤にて坂険阻也、

いよいよです…

土堤の下ハ野新田に続きたる広野、桜草所々に開き、あちさいに似て黄なる花の草、解夏草一面、三町はかりにて畑の間へ入、
ということです。さらに記述は、続きます。珠明院を詣でた後、帰路の記述をご紹介します。

帰路娵菜、野韮、忍冬を取々行、広野少手前にて先剋次兵衛方に有し客、後家主人と見へ少女婢等五六人・武士五六人跟随、広野にて桜草を堀、向ふより婦四五人来、従者のいへる…

帰り道に様々な野草を取りながら、帰るのですが、桜草も掘って持ち帰るようなのです。こうして、六義園にも桜草がやってくるわけです。もちろん、この後には、「宴遊日記」にも桜草鉢を貰うなどの記述が始まります。寺に詣でるために出かけた先で河原に自生する桜草を見つけて、その姿を好きになり、他の草花同様に大名屋敷に持ち帰り、植るようになるのです。もちろん、そうして、持ち帰るようなことをする人々を見て、それでは、自分もということになったのか、そうした評判を道すがらに聞き、「それでは自分も」ということになったのかもしれません。
残念ながら、この日記は、天明年間で終わるため、その後の桜草ブームの頃の大名屋敷の庭園での実態は伺い知ることができません。
ただ、この頃の江戸名所花暦にあった「尾久の原の桜草」についての多少のイメージを理解することができます。同時期の他の日記などにもこうした記述が発見されることを期待したいものです。
(了)