3月17日(現在の暦では、4月11日頃)尾久の原に桜草を見、その株を堀り、持ち帰ってから、宴遊日記には、「桜草」の記述が登場するようになります。
11日後の、4月28日には、

熊に桜草貰ふ

の記述が登場します。そして、翌月4月10日には、庭での記述にまた登場します。

七過よりお隆同道蒲公を取、庵へ行、黄山蘭を掘、七半過帰る、楡子・海棠を芦辺へ植る、桜草を花壇へ移す

多分、貰った鉢ものの桜草を花壇へと移したのでしょう。もう、既に5月。花の盛りを過ぎた桜草を花壇へと移したということは、この当時は、信鴻にとて桜草自体、鉢物として、特定の品種を楽しむ段階になかったと考えらえます。
野生種やもらった桜草鉢の花も時期を過ぎた後は、庭に植えていたということになります。多年草であることは理解していたのでしょう。
他の大名屋敷の庭園や庭ではどのようだったのでしょう?伊藤伊兵衛などに関わりの深かった藤堂家の庭についてのこの当時の日記や記述があれば、是非見てみたいものです。
(了)