まず、当時発行された花見ガイドに桜草についての記述を見てみましょう。

【比較検討する文献】
<発行年代順、参考資料「十九世紀日本の園芸文化(平野恵著)」「江戸名所花暦」>

「東都近郊図」(仲田惟善・文政8年1825年)
「江戸名所花暦」(岡山鳥著/長谷川雪且画・文政10年1827年)
「東都花暦名所案内」(仲田惟善/九犀堂・天保2年1831年以降)
「花みのしおり」(仲田惟善・天保4年1833年)
「花見のしおり(花なみのしおりの写本)」(明治11年1878年)

【文献の著者と記述の連続性】


【各文献での記述】<記述内容は、太字>
「東都近郊図」
戸田ヶ原 サクラソウアリ
「江戸名所花暦」
桜草

巣鴨
庚申塚左右。この辺植木屋、または農家にても作れるなり。こは生業となすゆゑなり。

尾久の原
王子村と千住のあひだ。今は尾久の原になし。尾久より一里ほど王子のかたへ行きて、野新田渡しといへるところに、俗よんで野新田の原といふにあり。
花のころはこの原、一面の朱に染むごとくにして、朝日の水に映ずるがごとし。またこの川の登り来る白魚をとるに、船にて網を引き、あるこは岸通りにてすくひ網をもって、人々きそひてこれをすなどる。桜草の赤きに白魚を添へて、紅白の土産なりと、遊客いと興じて携へかへるなり。
文政10年1827年頃には、尾久の原の桜草も減り、野新田に盛りが移っていたようです。1781年安永10年の柳沢信鴻の「宴遊日記」に登場した「尾久の原、野新田」の桜草から46年後になります。この頃には、桜草見物といったことが広く知られ、多くの宴席が野原で繰り広げられるようになったようです。宴遊日記の印象からは大きく変化した桜草の流行が感じられます。

「東都花暦名所案内」
桜草 同八十日(立春より八十日頃という意味)
千住の野 野新田 戸田原
東都近郊図と同じ作者でもあり、戸田原から、広く、千住と野新田をあげていますが、「江戸名所花暦」にある巣鴨の植木屋などの著述は見えません。毎年出版されたという「花暦名所案内」は、あくまで花見のためのガイドといった性格だったようです。

<続く>