津田宗及とその茶会とは何かが解ったところで、いよいよ、この茶会がどのように行われたかを見ていきましょう。最初に誰がこの茶会に参加したのかを見ていきましょう。

この茶会について書かれた「さくらそう会」会報No.12に森富夫さんが書かれた「さくらそうの茶花」も参考にしながら、説明していきます。森富夫さんの文章は、赤の太字で記述していきます。最初には、この宗及の自会記に参加した人物について書かれた部分をご紹介します。

「宗及が亭主となり、客に因幡善浄坊と長岡休夢をよんで、茶会を催したのですが、客のうち長岡休夢は三斎細川忠興の長男で、関ヶ原の戦の後仏門に入り、父の三斎から利休伝来の茶釜をゆずられたことで有名です。」

一人目は、因幡善浄坊(多分、主客)です。
因幡善浄坊:(wikipediaより)
宮部 継潤(みやべ けいじゅん、享禄元年(1528年)? − 慶長4年3月25日(1599年4月20日))は、戦国時代の武将。官途は中務卿。通称は善祥坊(善浄坊)。実父土肥真舜。養父善祥坊清潤。 宮部長房の父。
天正12年は、56歳で、宗及と同い年か、数年年下という年齢でしょう。

【略歴】
近江国浅井郡宮部村(現在の滋賀県長浜市宮部町)の小豪族を出自にもち、もとは比叡山の山法師であったと伝わっています。善祥坊清潤の養子となって比叡山で修行をしたのち僧侶となったが、故郷宮部に戻り、近江の戦国大名・浅井長政の家臣として仕えるようになりました。武勇に優れた一面もあり、長政に従って織田信長との戦いで活躍し、横井城の城将であった羽柴秀吉と対峙したが、元亀3年(1572年)10月、秀吉の調略に応じてその与力となります(『浅井三代記』)。
居城である宮部城は、小谷城攻めには欠かせない重要拠点だったこともあり、天正元年(1573年)8月の小谷城落城まで多く勲功を上げています。この時期に秀吉の甥(後の豊臣秀次)を養子としているが、事実上の人質であったようで、浅井氏滅亡後は秀吉の元に返還されています。

その後は、秀吉の与力につけられて天正5年(1577年)からは中国攻めに従い、主として秀吉弟の羽柴長秀(のちの秀長)にしたがいながら但馬国方面の攻略に貢献し、秀長が山陽方面に赴いた場合には秀長に代わって山陰方面全体の指揮をになうほどになりました。天正8年(1580年)頃には、山名氏討伐後に但馬豊岡城主として2万石を有しています。鳥取城攻めでは最前線にあって吉川元春の援軍と戦い続けました。荒木村重離反の際に村重の小姓から秀吉に転仕した荒木重堅(のちの木下重堅)、但馬平定を通じて羽柴方にしたがった垣屋光成・垣屋豊続、出雲国出身で、かつて山中鹿介と行動をともにしてきた亀井茲矩などは、いずれも継潤の配下として山陰方面での毛利勢との戦闘に参加したものと考えられます。

天正10年(1582年)、山陰での戦功が認められ、因幡鳥取城の城代となりました。また、本能寺の変時、鳥取城は毛利氏に攻撃される可能性が最も高い拠点であったが(山陽側は高松城の水攻めの影響で攻めることが不可能だった)、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いと秀吉勢の主力が中国地方を離れている間も、その拠点を任され続けたことから秀吉の信頼の厚さがうかがえる。戦国時代研究者の谷口克広は、「この仕事は地味だけれど、秀吉をして心置きなく畿内で活躍させるための大きな力となったはずである」として、そのはたらきを評価しています。

本能寺の変後、秀吉が大きな権力を握るようになると正式に鳥取城主となり、5万石を領しました。天正13年(1585年)の佐々成政攻めや、九州攻めにも南条元続、亀井茲矩、荒木重堅、垣屋光成らの軍を従えて参戦し、日向国高城にて島津家久軍を撃退しています。九州の役後、因幡・但馬国内で加増され、5万971石を知行(鳥取城主となる)しました。軍役は、前述の因幡・但馬の国人衆を含めてであろうが、は5350人とある(宮部文書)。天正18年(1590年)の小田原の役にも参陣。同年・嫡子である長房に家督を譲っているが、形式上なものであって、本人が隠居したわけではなく、戦場での活動は減るものの、政務上での活動は続いたようです。

【天正12年の時点】
太字の部分が天正12年頃です。鳥取城の城代として、秀吉の重要な家来として活躍しています。天正13年春からの小牧、長久手の戦いには、参加していませんが、中国地方からの脅威を抑えるという意味での後方を守っていたという立場でしょう。
いかに秀吉と深い関係のあった武将であるかが、解ります。しかも、宗及と年の近い年齢の武将でした。


最近発見されたこの当時の秀吉と因幡善浄坊の関係を示す発見をご紹介します。
『関連記事』
鳥取城の落城直後 秀吉の掟書発見2010年09月18日
 羽柴(豊臣)秀吉が鳥取城を兵糧攻めで攻略した直後に、因幡支配の方針を具体的に示した文書が17日までに見つかった。明治時代に作成された写本が東大史料編纂所にあるが、実物は所在不明だった。秀吉による因幡統治の最初の状況を知る貴重な史料という。
(鳥取市上町の市歴史博物館)

文書は「掟書」と呼ばれるもので、縦29センチ、横79センチ。これまで原本がなかったため鳥取県史でもあまり触れられていない。1581(天正9)年11月4日付で、新しく城主に任命した善浄坊(宮部継潤)にあてている。秀吉の花押がある。

鳥取城の城代として同年3月18日に入城した吉川経家は200日余りの籠城の後、10月25日に降伏して自刃。掟書はこの後10日も経ずに出されており、鳥取城攻め直後に秀吉自ら所領の分け方や種もみの取り扱いなどを七カ条にわたって指図している。

新鳥取県史編さん委員の日置粂左ヱ門さんは「これまでないと思っていた幻の原本の発見は画期的なことで、研究が大きく進む。毛利勢力が明け渡した後の因幡の一番初めの国分けの状況がよく分かる」と話している。

掟書は鳥取市歴史博物館の伊藤康晴学芸員が、花押の筆跡や紙の質などから実物と判断した。18日から同館で開かれる開館10周年特別展で展示される。

大阪城天守閣・北川央研究副主幹の話 当時、織田信長の部下だった秀吉が戦争直後に出した掟書は他に例がないだろう。本来、信長が出すべき立場。秀吉が中国攻めの大きな権限を持たされていたことを示している。